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日蓮大聖人・池田大作

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第九章 人間の安全保障――核兵器のない…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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11  「対立的競争」から「協調的競争」へ
 池田 私は、昨今のNGOの活躍を見るにつけ、戸田会長が提唱した「地球民族主義」の思想――今日の言葉で言えば、「地球市民意識」が着実に芽生えているのを実感します。大事なのはそうした草の根の運動です。
 戸田会長はつねづね、「いかなる民族も犠牲になってはならない。地球上から悲惨の二字をなくしていくのだ」と語っていました。
 この思想の淵源には、第七章でもふれましたが牧口会長の「人道的競争」という共存共栄の理念があります。
 牧口会長は『人生地理学』の中で、“人類は、もはや「軍事的競争」でも「政治的競争」でも「経済的競争」でもなく、「人道的競争」の時代を志向すべきである”として概要、次のように訴えました。
 「人道的方式といっても、単純な方法はない。政治的であれ、経済的であれ、人道の範囲内においてすることである。要はその目的を利己主義に置かず、自己とともに他の生活をも保護し、増進させようとするところにある。反言すれば、他のためにし、他を益しつつ自己も益する方法を選ぶことにある。共同生活を意識的に行うことにある」(『牧口常三郎全集』第二巻、第三文明社。現代表記に改めた)と。
 ここで重要な点は「人道」の「競争」ということを強調したことです。「競いあう」ということを否定するのではなく、人類の真の進歩、発展、共生のために競いあう、その人道的競争こそが新たな時代を開くと主張した点です。まさに二十一世紀の平和のための“ホシ”がここにある感を深くします。
 テヘラニアン 今から百年も前に、人類共存のためのビジョンをこれだけ明快に示していたことに、驚きをおぼえます。
 これまで論じたように、今日の火急の課題は、時代の潮流を「対立」から「協調」へ転じていくことにあります。
 過去数世紀の世界を支配してきたのは、ホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」という考え方でした。こうした世界では、いわば「ゼロサム」ゲーム――ある人にとっての幸福と安全は、他の人間にとって不幸となり危険となる、ということになります。
 池田 こうした「敗者を生みだす世界」ではなく、「皆が勝者である世界(ウィンウィンワールド)」を築くことが、地球社会のめざすべき指標と言えますね。
 私がかつて「平和提言」の中で言及した、南アフリカでのマンデラ大統領の挑戦、つまり肌の色によって差別されない「虹の国」の建設のビジョンなどは、まさにその好例と言えましょう。
 テヘラニアン 私も提言を読み、深い感銘をおぼえました。
 マンデラ大統領が掲げるビジョンには、「各人の安全と幸福が、万人の安全と幸福の前提条件である」という思想が息づいています。そこでは、「プラスサム」ゲームが前提となっているのです。
 ホッブズの暗い悲観主義の代わりに、マンデラ大統領は各人の内面に神性が潜在すると想定して、楽観主義から出発しています。それは、とりもなおさず、人間にひそむ悪の側面ではなく善の側面を信頼し、それを呼び覚ます提唱なのです。
 池田 まさに、一人一人の人間の精神革命が欠かせませんね。「皆が勝者である社会」を築くには、頭で納得するだけでなく、深き「内なる変革」が必要となります。
 この点、ロートブラット博士が以前、私に次のように語ったことがありました。
 「『戦争』は、人間を愚かな動物に変えてしまう力をもっている。通常の状態では思慮分別のある科学者も、ひとたび戦争が始まると、正しい判断を失ってしまう。『野蛮』を憎んでいた人が、みずから『野蛮』な行為に走る。そこに戦争の『狂気』がある」と。
 テヘラニアン こうした狂気は戦争にかぎらず、あらゆる悲劇を人類にもたらしてきました。
 そんな痛い目にあってきたにもかかわらず、人間は過ちを繰り返してしまう――私は人間の“業”とでもいうべき、問題の根深さを感ぜざるをえません。
12  人間生命の内なる変革が平和を築く
 池田 仏法では、「十界」といって、どんな人間にも十とおりの生命境界があると洞察しています。
 いうなれば、戦争に巻き込まれた人間の生命状態は、このなかでももっとも低い「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」の三悪道四悪趣におおわれたもので、本能と欲望に支配されるままの状態と言えましょう。そうした状態にある人間の思慮も行動も、愚かで野蛮であることをまぬかれないのは、仏法の知見からみれば道理なのです。
 かりに表面上の平和――「外なる平和」が達成されたとしても、それはちょっとした縁でたやすく崩れてしまうもろい存在です。迂遠なようでも、崩れない平和を建設する礎となるのは一人一人の人間の心の中に平和を築く、つまり「内なる平和」を確立することであると考え、私どもSGIは「人間革命」運動を世界に広げてきました。
 この人間生命の内なる変革が、波が波を呼ぶように、賢明なる民衆のスクラムとなって連動するとき、「戦乱」と「暴力」の宿命的な流転から必ずや人類を解き放つであろうことを、私は信じてやまないのです。
 テヘラニアン 会長が賢明にも提起された「内的な平和」と「外的な平和」の関係について、あるペルシャの詩人が、次のように巧みに表現しています。
 「生命のない存在が、他の存在に
  生命を与えるなど、どうしてできるのか」
 自己の内面に平和のない人が、どうして他者に平和を伝えられるのか――私にも、それは不可能なことであると思われます。
 外面の世界は、非常に複雑な紛争の多いところであって、平和を確立するのは容易ではないかもしれません。しかし人はだれもが、一つの寄与ならできるはずです。では、どこから始めればよいのか――。
 自分の影響力をもっとも受け入れられるところは自己の内面であり、まずそこに向きあうべきです。
 スーフィーの教えでも、自己に克つことをもっとも偉大なことであるとしています。自制のない自我は自己の最大の敵となり、それが絶えず人を独善へ、瞋恚へ、貪欲へ、憎悪へ、排他へと向かわしめます。
 池田 よく、分かります。
 仏法の一つの眼目も、そうした「自己規律の力」をやしなっていくことにあるのです。
 テヘラニアン スーフィーの教えでは、人の内面にはもう一つの自我があり、これは教育や訓練、また慈愛の心を通じて目覚めると説きます。
 こうして、自我と他者との二元性を超越することが、迷妄から覚めた平和の人生へのカギとなっていくのです。
 自己の利益を他者の利益と区分し続けるかぎり、紛争の種をまいていることに変わりはないでしょう。
 私たち人間の「生」は、もっと大きな存在の一部であって、他のすべての生命体と「相互依存」の関係にあることを認識することが重要です。
 そう認識すれば、個別的と思われる肉体的存在がまねく、不可避的な宿業である紛争をも解決する道を、私たちは歩めるのではないでしょうか。
13  深い生命の尊厳観が人間共和の源泉に
 池田 仏法の「縁起」の思想にも相通じる考え方ですね。「縁りて起こる」とあるように、人間界であれ、自然界であれ、単独で生起する現象はこの世に一つもないと見ます。万物はたがいに関係しあい、支えあいながら、一つのコスモス(調和世界)を形成し流転していく、ととらえていくのです。
 「自分は生きている! 自分は、大きな生命の一部なのだ!」――こうした「生命」というもっとも普遍的な次元への深き詩的な眼差しは、そのまま、限りない多様性への「共感」となって広がっていきましょう。
 この生命の内奥から発する「共感」、いうなれば生命を内在的に掘り下げていったところに立ち現れる透徹した“平等観”や“尊厳観”こそ、「人間共和の世界」の源泉となりうるのではないでしょうか。
 テヘラニアン つまり、共生といっても、たんに「他者の存在を認める」といった表面的な寛容の精神だけでは不十分であるということですね。
 池田 ええ。それは、たんなる心構えといった次元を突き抜けて、生命の奥底から湧く秩序感覚、コスモス感覚に根ざしたものでなければならないでしょう。
 また、仏法では「依正不二」といって、生命活動の主体である「正報」と、環境である「依報」が二にして不二であると説きます。つまり、「主体」としての人間の生き方、生命状態が「環境」にも大きな影響をあたえていく――「内なる平和」の確立なくして「外なる平和」の創造は困難と考えるのです。
 ただし、「心の平和」だけではこの激動の社会の中で、たんなる観念論や抽象論の域にとどまってしまう危険性もないわけではありません。
 ゆえに私は、それと同時に、社会の平和と調和を追求する「現実の行動」が必要になると考えます。具体的実践がともなってこそ、「平和」は現実としての形をとりはじめ、定着しはじめていくのです。また、その戦いのなかでこそ一人一人の「内面の平和」も陶冶され、崩れないものになっていくのではないでしょうか。
 こうした往還作業が、やがて時代を突き動かす力となっていくと、私は強く確信するのです。

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