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日蓮大聖人・池田大作

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4 尊厳死と死苦の超克  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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5  釈尊が示した人間としての「尊厳なる死」
 池田 釈尊の臨終のときのエピソードを思い出します。釈尊は、すでに死を予期しており、その三カ月前には入滅を宣言しております。
 その死の直前のことです。スバッタという修行者が、釈尊に会いに来ました。従者の阿難は、「釈尊は疲れているから、悩ませてはいけない」と言って、拒否するのですが、三回目に来訪したときに、釈尊自身が、その来訪を聞いて、進んでその修行者に会います。そして、釈尊は、出家してから、「正義と法」の領域を歩んできたことを、諄々と語りました。
 釈尊の話を聞いて、修行者は「暗闇の中で燈火をかかげるように、尊師は種々のしかたで真理を明らかにされた」(『ブッダ最後の旅』中村元訳、岩波文庫)といって釈尊に帰依しました。彼は、釈尊の最後の直弟子となったのです。
 釈尊は、入滅の直前まで、「法」を説き続け、民衆の救済につとめたのです。そこに、人間としての「尊厳なる死」があることを、弟子たちに示したのです。
 私の恩師戸田先生も、病床におられたときでさえ、他の人々を激励しました。仏法上の質問にていねいに答えておられました。亡くなる寸前まで、悩める人々の相談にのっておられました。身体が重病におちいられたときでさえ、戸田先生の生命は真実の“健康”に輝いておりました。人間生命の“尊厳性”をいかんなく発揮していたのです。
 また、人権の勇者コーミエ氏も、もう亡くなられたのですね。
 ブルジョ 彼は、本当に好人物でした。彼はたしか、私より十歳ほど年上だったと思いますが、六十二、三歳のときに、ガンで亡くなるまで、仕事を精力的に続けていました。私たちと会うときも、自分が病人として皆から扱われるのを最後まできらう人でした。「私は病気ではないよ。ただ体がガンに侵されているだけなんだ」とよく言っていました。
6  コーミエ氏はまさに、健康というものと対峙してきた人物です。つまり、彼は、ガンを患うようになっても、そこで自分自身を病気だというふうにはとらえずに、その状態にうまく対処する能力に長けていたのです。
 池田 真実の「健康」は、たんに肉体が病んでいるかどうかだけでは、はかれません。その人の心が、他者や環境に開かれ、社会のために奉仕する創造的能力を発揮している生命状態をさすのではないでしょうか。
 そのような「健康」を保持したままの臨終――そこにこそ、現代の人々の「尊厳死」運動がめざす“真意”があるのではないでしょうか。私は、そのようにとらえております。
 博士の二人の恩師の“生命”は、現在の博士の中に受け継がれ、脈動していることが、私にはよくわかります。博士は、恩師の慈愛の生き方、人生観、学問への態度を継承され、文学、詩心まで受け継がれております。
 また、コーミエ氏の人権への闘いを受け継がれていることもよく存じております。その意味で、コーミエ氏の“生命”は、博士の中に生きていると言えましょう。
 仏法では「師弟不二」と言いますが、私の師戸田先生の大慈悲の“生命”も、私の中に生き続け、躍動しております。私は、つねに師とともに、人類の平和と公正のために尽くしている気持ちです。
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