Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

4 生涯青春の生き方  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

前後
3  本当の「若さ」は「開かれた心」にある
 ブルジョ これは私の個人的な感想ですが、年をとりながら、人間はゆっくりと円熟さを増していきます。そして、豊かな人格が陶冶されていきます。もちろん、例外もありますが。(笑い)
 池田 おっしゃるとおりです。いくつもの段階、さまざまな年輪を経て、どれだけ奥深く、広がりのある、自信ある人生観、死生観をもてるかどうかが、人生の勝負です。その意味で、「加齢」とは、人間としての「成長」、人格完成への軌跡でありたいものですね。
 ブルジョ 私自身、そのような成長過程の段階をよく公言したものです。三十歳になったとき、私は「二十歳のときより若返った気がする」と。四十歳になったときは、「三十歳のときより若返ったような気がする」と。今、当時の記憶をたどってみると、たしかに二十代より三十代、三十代より四十代のほうが、自身の行動の範囲が広がりました。
 また、自分の生得の能力について自信をもち、経験も豊かになり、積極的になってきました。それゆえに、胸襟を開いて、新しい出会いを歓迎し、新しい友情を育み、新しい対決にも対応できたのです。
 池田 みごとな「人間完成」へのプロセスですね。
 人生のあらゆる場面で、「四苦」を超克しつつ、大海のごとき境涯を広げていかれたのですね。
 ブルジョ とんでもありません。いずれにしても五十歳を過ぎると、そういう言い方をするのにためらいを感じるようになりました。というのも、「若さ」の本当の意味を考え始めたからです。そして、若い世代、自分の子どもや学生たちに対する責任、彼らとともにあることの意味を強く意識するようになりました。自分がもはやこの世に存在しなくなった後も、人間生命の大きな流れを存続させていくことに対する責任感とでも言えましょうか。
 池田 人間にとって、「若さ」の本当の意味とは、肉体的年齢のことではない。仏法的に言えば、「一念」の柔軟性や寛容性、つまり「開かれた心」をさします。
 ブルジョ 私も、「開かれた心」や柔軟性が青年期の特徴で、頑迷と偏狭が老年の特徴とは、一概に言えないように思います。
 池田 そのとおりです。高齢になっても、社会の中で積極的に活躍し、創造的な仕事をされている人、社会のために奉仕しゆく人は多くおります。そういう方々を見ますと、豊かな経験に基づき、鋭い洞察力と総合判断力を発揮して、新しい知識を次々と吸収しています。まさに、社会と人生に「開かれた心」の持ち主です。
 そのような人生にとって、「老い」とは、この世での“人生ドラマ”の人格完成への最終章を描きあげていると言えます。それこそ、創造と希望と歓喜のドラマです。
 ブルジョ 私自身の経験からすれば、新しいものを率直に受け入れ、むしろ歓迎できるようになったのは、二十歳の時よりも、四十歳、五十歳になって
 からです。
 池田 仏典に「年は・わかうなり福はかさなり候べし」とありますが、博士の人生の軌跡は、まさに「生涯青春」の姿そのものです。ますます真実の「若さ」を謳歌していただきたいと思います。
4  自己の限界を内面から打ち破る
 ブルジョ ありがとうございます。もう一つ、私の個人的実感を話してもよいでしょうか。
 池田 どうぞ、どうぞ。貴重な人生の先達の体験です。
 ブルジョ どんな人であろうと、一生かかっても世界の国々を全部見て回ることはできないと諦めざるをえません。ましてや、宇宙には無数の銀河があり、それらの星に行くなど、とうてい不可能です。
 池田 私も、世界の多くの国々を回りましたが、それでも、すべての国というわけにはいきません。
 ブルジョ 豊かな人間文化を誇る歴史的な都市などにも、未訪問のまま別れを告げることになるでしょう。また、同じ時代、同じ場所で、社会的、文化的遺産を共有し生活していながらも、すべての人々と語りあうことは不可能です。
 池田 ギリシャやエジプト、ヨーロッパの古い都市、また、インド、中国などの歴史を重ねた都市を訪問することは、私たちの「心」を、人類的次元にまで拡大してくれますね。
 ブルジョ 世界中のいろいろな国を訪ねて歩くというのは、私の好奇心のシンボル的な意味があります。それぞれの国の学問、科学、文学、芸術を探求してみたかったのです。しかし、すべての国を訪れ、すべての人々と語りあうことは不可能である。それを知ったとき、私は深い悲しみをおぼえました。ところが、私は、五十歳の時に、そんな深い悲しみにくれる自分自身から解放されたのです。
 池田 いかなる境涯の変化が起きたのですか。
 ブルジョ それは、人々があてどもなく、その街並み、散歩道、公園などを散策するパリの街への三十回目の訪問の後、突如として心に浮かんだのです。
 つねに今まで自分に重くのしかかってきていた限界の問題を、内面から打ち破らなければならないことに気づいたのです。そして、自分が知ることを許された世界を身体的にも、感覚的にも、十全に生きぬくべきであることに気づいたのです。
 それまで、猪突猛進してきた自分の人生、つまり、レースに負けまいとして苦しい時代のなかで走り続けた後、ゆっくりとしたリズムを取り戻し、深呼吸をして回復した自分ということもできるでしょう。
 池田 博士は、「自己自身を知る」という偉大な洞察を体現されたように思います。
 仏法の目的も、「自己を知る」ことに集約されます。釈尊は、「自己」という本来の自分を覚知するために、王位を捨て、快楽主義を打破し、また、苦行主義をも乗り越えていきました。
 そして、“中道”の生命のリズムを味わいつつ、「仏」という宇宙大の「自己」を覚知したのです。「宇宙即我」の覚知から、釈尊の民衆救済への一生が始まっております。
 ブルジョ 人の一生の短さを悟っただけに、愛と友情、人々との出会いが、それまでに感じたことがなかったほど重要に思えてきました。そして、教師という自分の職業が何ものにも代えがたい、貴重なも
 のに感じられたのです。
 池田 釈尊も「人類の教師」と言われております。
 仏法の慈悲とは、「抜苦与楽」と言い、四苦と同苦し、それを超克し、幸福境涯に到達する実践をさしております。慈悲の原義には、真実の「友情」という意味が含まれています。
 慈悲、友情、そして、「出会い」こそ、「若さ」の証であり、「生涯青春」の勲章と言えましょう。博士の「若さ」の源泉が、わかったような気がします。

1
3