Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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五、国連と真の平和  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

前後
2  私は、人間の行為の中で最も破壊的なこのような戦争を、なんとしても避けなければならないとの気持ちから、アメリカ、ソ連、中国など各国の首脳とも会って、平和のために話し合いを重ねてきました。しかし、平和を守るためにより大事なことは、民衆相互の信頼と理解の絆を強めることであり、そのうえに立った平和への協力体制の確立です。そして、私は、その基本となるのが、第二次世界大戦の悲惨な教訓から生まれた、各国の話し合いの場としての国際連合であると信じています。これに対して、ペッチェイ博士はどうお考えでしょうか。また、博士は恒久平和をもたらすために、世界政府のつくられる可能性、さらにそれが平和への道となりうるかという問題について、どのようにお考えでしょうか。
3  ペッチェイ 私は、国連は、現在の形態のままでは、現代の切迫した諸事態に十分対応しうる、世界的政治機構の礎として機能することはできないと思っています。また、さまざまに異なる生活水準をもち、他国を犠牲にしてまで自国の利益を求める国家主義的精神が染み込んだ数十億の人類にとっての、理想的な話し合いの場ともなりえないと考えています。
 とはいえ、現在、国連に比肩しうる重要性をもち、ほぼ全地球的な代議制をもつ国際的な討論の場が他にないため、その仕事ぶり全般がいかに緩慢で、とくにその平和維持の成績がいかに悪くとも、われわれは国連を維持し、強化していかなければならないわけです。
 人類はこれまで、この惑星上で急激に自らの状況を変容させ、その物質的装備を途方もなく向上させてきましたが、一方では、時代遅れの政治哲学や政治制度からいまだに脱皮できないでいます。これは、国連の過失ではありません。国連は、あらゆる国内的な抗争や国際的な緊張や欠乏や欠陥などの、事実上の貯蔵所になってしまっているだけなのです。こうした状況のもとでは、国連は、世界の秩序を立て直すことも、あるいは、平和を脅かすもろもろの紛争に権威をもって介入し、処理することすらも、ほとんどできないわけです。
4  この三十年間以上というもの、国連はいざというときに、いつも無力であったことが立証されています。最近の出来事だけを考えてみても、イスラエル・アラブ間の土着的戦争を防止するうえで、“アフリカの角”地域の戦闘をやめさせるうえで、またイラン・イラク戦争を停止させるうえで、フォークランド紛争を解決するうえで、さらにはレバノンの大虐殺を回避させるうえで、国連は、実質的に何もできませんでした。一九八二年六月の第二回国連特別軍縮総会は、惨めで、劇的な失敗に終わりました。
 これはすべて、国連の機構が、政府レベルでの外交や討論にはたしかにかなり有用な道具ではありえても、戦争と平和という今日の決定的に重要な問題に対しては、なんら実質的な統制力も影響力ももっていないことを如実に物語っています。国連自体も、国連が包括している世界的政治組織も、それらがもし平和の推進・擁護役であろうとするならば、根底から改革されなければなりません。
5  池田 たしかに国連は無力かもしれません。しかし、国連を無力にしているのは、アメリカやソ連、中国、日本、そしてもちろんイタリアも含めて、現代の国際政治にかかわりをもっている主権国家のエゴイズムであることを忘れてはなりません。国連を有力な機関にするのも、無力な飾り物にするのも、現代の主権国家と民衆の支持いかんでしょう。
 したがって、国連にただ期待することも誤りなら、期待できないときめつけることもさらに大きな誤りであるといわなければなりません。どのようにして、世界平和への希望を託せる機構に育て上げるかが問題であり、それが、平和を願う者の義務であると私は考えるのです。
 はっきり言って、国連という実体があるのではないのです。あらゆる次元の社会機構と同じく、構成員があって、その機構を守り機能させていこうとする、その構成員の意思と参画・服従の行動によってのみ、機能を発揮し、その存在意義を全うしていけるのです。
 それは、いまの国連を諦めて、まったく新しい機構をつくっても、同じことだと考えます。いま、国連を形成している構成員は主権国家です。その構成員である国家には、人口数億を擁する超大国もあれば、人口数万の国もあり、少なくとも票決にさいしては同じ一票しか投じられません。また、とくに平和の問題について討議する安全保障理事会の常任理事国が、自国にとって都合の悪い議題に関して拒否権をもっていることも、国連が平和維持という本来最も重要な役目を果たすのを妨げている大きな原因です。強国が弱い国を侵略しても、それを妨げることも、処罰することもできないでいるのが実態です。こうした欠点は当然改めることが望まれます。
 しかし、それは機構的によりも、参加している国々のエゴイズムを抛った、公平で献身的な行動によって、改善されるのではないでしょうか。その意味で、現在の国連の無力さは私もよく知っていますが、国連をこそ世界平和のための協調と話し合いの場として生かしていくべきであると思うのです。
6  ペッチェイ 冒頭のご発言でもう一つおたずねの点は、世界政府なるものが、平和をもたらす良い方策になるだろうかということでした。私は、そうは思いません。いまのところ、そうした超大政府(スーパー・ガバメント)の設立は、どの道まったく考えられないことですが、多くの観点からいって、そうした政府はかえって価値を下げることになるでしょう。その政府を組織し、民主的に機能させることの困難さだけをとってみても、大変なことです。われわれは、世界中央政府というキメラ(注1)(怪物)をなにがなんでも追い求めるようなことは、すべきでないと思います。
 この点においても、他の多くの場合と同様、われわれは自然界からヒントを得るべきです。自然界では、なにも一つの中央機関とか組織とかが生命体を支配したり、森林や海洋の生々発展を調節したり、一つの河川の流域のさまざまな自然環境の関係を司ったりしているわけではありません。これらすべての生物組織体や生物物理学的複合体にあっては、大小さまざまな無数の体系が存在し、連動しています。そして、お互いの抑制と均衡によって、動的な平衡が保たれているのです。これが生命の営みというものです。人間の社会も、それ自体が自律的に組織化する一個の生命的システムである以上、そうした他の生々発展する諸体系との類比に、その雛形を求めるべきでしょう。われわれは、平和への近道をみつけるという幻想によって、世界政府への道を追求してはならないと思います。
7  池田 私の考えも同じです。これは、故トインビー博士との対談(注2)でも論じ合ったことですが、私の考えは、やがて将来においては世界的な統合体が必要となるが、それは決して全体主義的な行き方ではなく、連邦主義的な政体でなければならないというものです。トインビー博士のご意見によれば、中国の歴史を範にして、まず第一段階は、強力な国によって統一が実現され、第二段階として、比較的穏健な統一政府にそれが引き継がれるという統合化への過程が考えられるということでした。
 トインビー博士は、それを望ましいこととされたのでなく、歴史学者として、過去の事例から結論されて、人間の本性が変わらないかぎり、そのようにならざるをえないであろうと考えられたのであると思います。
 私は、それに対して、第一段階の統合化において生ずる犠牲はあまりにも大きいし、この悲劇を避けるためにも人間性の変革が肝要であり、それを基盤にして実現されるべき形態は、連邦主義的な世界政府でなければならないと主張したのでした。もちろん、いまもこの考えは変わっておりません。
 ペッチェイ博士のただいまのご意見は、世界政府の実現そのものについて、よりペシミスティック(悲観的)なお考えであるように伺いました。しかし、あなたも全面的にそれを不要とされているのではなく、人類の意識の自然な高まりによって、合意の場としての世界政府が形成されていくべきであるとのお考えであると解釈します。
 平和の問題は別にしても、資源、エネルギー、環境汚染、食糧、疾病、情報等々、あらゆる問題に関して、もはや国境の枠を超えて全地球的な規模での協力が要請される時代になっており、私は、そうした問題への取り組みを通じて、世界政府的な一つの形態がしだいに形成されていくのは必然の流れであると考えています。
8  ペッチェイ 平和の問題は、人類の生存にとってきわめて基本的なものです。そこで、私は別の角度から、何点か述べてみたいと思います。まず初めに、安全保障と軍縮と平和とは。、はっきりと区別されなければならない。ということです。
 安全保障は、言うまでもなく各人、各共同体、各社会の当然の願望です。しかし、われわれの世代がなぜ、あの着実に強力化する大量破壊兵器を蓄積することで安全が保障されるという奇怪な信念をいだくほど、臆病で頭が鈍ってしまったのか──これは、いかに現代が無秩序で混乱しているからといっても、その説明にはなりません。にもかかわらず、東洋でも西洋でも、最先端の先進諸国の世論は、かなり長年月にわたって、究極兵器に頼ってこそ安全保障が達成できると信じてきたようです。一方、各国の政府も、それこそが正しい道であり、それにともなう犠牲は当然で致し方がないのだということを、これまでも、また現在も、全力を尽くして国民に信じさせています。
 池田 兵器の増強に安全保障を求めることの愚かさは、これを日常生活の次元に置き換えて考えてみれば、明らかです。つまり、互いに剣を擬し合いながら歩いているのと同じだからです。相手がいつ刺してくるかわからない。だから、自分も相手の胸元に剣を突きつけて、相手が刺してきたときには刺し返す用意をしておく。そして、刺せば刺し返されると自覚させることによって、刺してくる者を制御する──これが、その根底になっている考え方です。
 しかし、危険をこんなに紙一重のところにおくならば、なにかの拍子で──まったく相手を刺そうという意思がなくても──切っ先が相手を傷つけないともかぎりません。傷ついた側は、相手が故意に刺したと思い込み、刺し返すでしょう。こうして、互いに刺し合い、双方とも倒れてしまうことになりかねません。
 かつては、日本でも西欧でも、各人が、安全保障のために、武器を携えることが当たり前とされた時代がありました。しかし、近代に入ってからは、その危険性と愚かさへの認識が支配的になってきているといえるでしょう。いわゆる“法治国家”の統治形態は千差万別であり、一律に論ずることはできませんが、大きな流れのうえからいって、私は、国際社会においても、この認識が支配すべき時代にならなければならないと思うのです。
9  ペッチェイ 幸いにして、ある堅実な考え方が、今日かなり多くの人びとに理解され始めています。それは、われわれの支配階層の一部にある軍備拡張熱も、また、それについてのこじつけの、カフカ的(注3)な理由づけも、たんに現代社会に広がっている全般的な不安と混乱の状態を示す徴候にすぎず、むしろ緊急を要するのは、社会的に健全な状態を回復することだという考え方です。
 そうした中で、真の転機が訪れるのは、相当数の市民が進んで立ち上がって「悪魔のような戦争機構を強化することで安全保障の問題に対処しようというのはまったく誤っている」と叫ぶようになったときでしょう。そしてまた、そうした軍備強化によって、いわゆる“敵”から守られているという幻想のもとに人びとが生きようとしても、実際には、それは万人に災厄を招き寄せることになるのだということを、宣言できるようになったときでしょう。
 この致命的な誤りを認めることは、同時に、軍縮即平和と考えることがいかに愚かしいか、また、少数の軍人や外交官が秘密裏に進めている軍縮交渉によって、この戦争機構が実際に一つ一つ解体されるなどと信じることがいかに愚かしいかを示すことになるでしょう。
10  これまでのところは、万事がまったくの思い違いに終始してきました。第二次世界大戦終結よりこのかた、そうした努力は、ほとんど絶え間なくつづけられてきました。そこでめざされたものは、紛争の防止もしくは解決のための手段・方策を促進することであり、たとえわずかでも軍備の管理・制限を達成することであり、非核地帯の設定であり、兵力・資材の増強や配備の相互査察を可能ならしめることであり、全般的な軍縮への道を奨励することでした。こうしたことが行われている一方で、保有核兵器の破壊力は百万倍以上に増大していたのです。
 そうした軍縮への努力を緩めてはなりませんが、現在までのところ、それはひどい失敗に終わっているという、冷厳な事実も直視しなければなりません。そのうえ、こうして私たちが対話をしている間にも、手の込んだ種々の交渉がつづけられている一方で、新型の恐るべきレーザー、微粒子光線、化学・生物・気象兵器等が、主として宇宙戦争ないしは星間戦争用として、軍事的パイプラインに乗っています。これこそは、現代人の好戦性という、愚かさの中でもその最たるものといえましょう。この新種の戦争に備えて、あらゆる科学と訓練が結集され、巨大な資力が動員され、前代未聞の宣伝機関──交渉のテーブルにおけるすべての書面上の歩み寄りを一瞬にして無効にしてしまう宣伝機関──が、準備されているのです。
11  池田 一方で軍備を縮小する交渉のテーブルについていながら、他方で安全保障のために軍備を増強したり新兵器を開発したりしているのが、現代の国際政治の実態といえましょう。いまのご指摘のように、軍縮というと平和への前進と受け止められがちですが、その本質を見誤ってはならないと思います。
 政府間交渉で行われている軍備の縮小というのは、主として経済的動機によるものであったり、新しい軍備・兵器の開発によって古いものが不要化したことによるものであったりします。そして、相手に与える脅威は減少させないようにしながら、相手側の軍備を減らさせようとしているといってよいでしょう。こうした現状のままでは譬喩的にいえば、大きな重い剣を擬し合うのをやめて、毒針に変えようとしているだけではないでしょうか。
12  ペッチェイ いずれにせよ、軍縮即平和ではないのですから、たとえいかに誠意ある軍縮協定でも、それはたんに正しい方向へ向かう第一歩にすぎないということを、われわれは認識すべきでしょう。軍縮は、たしかに平和への一つの鍵であり平和にいたる道程の一里塚ではありえても、平和そのものではありません。平和とは一つの無形の価値であり。、心と精神の文化的な状態。であって、それは各個人の内にはっきりと強く刻み込まれるとともに、他の人びとにも絶対的に必要なものとして広く分かち合われ、その結果、社会全体の共有の世襲財産とならなければなりません。
 平和は、このように、すべての、もしくは大多数の市民が、尊いもの、献身するだけの価値あるものとして大切にするようになったときに、初めて実現するものでしょう。戦争が傲慢、エゴイズム、相互不信、恐怖の蒸留された苦汁であり、ほとんど例外なく権力を行使する側によって醸成されるのに対し、平和とは、民衆間の相互理解、寛容、尊敬、連帯が自然にもたらす結果であり、民衆自身の心からのみ芽生えうるものです。
 軍縮となると、これは戦争と平和の間の不確定な状態に属するもので、それを決定するのは、ほんの少数の人びとにすぎません。軍縮は、いかに必要不可欠であるとはいっても、それ自体では決して十分ではないということ、そして軍縮がもたらすかもしれないどんな緊張緩和も、また軍縮が生み出すかもしれないどんな政治情勢や経済状況の好転も、本質的には不安定なものであり、将軍たちの気分しだいでいとも簡単に覆されてしまうものだということを、われわれはしっかりと弁えなければなりません。
 そして、いわゆる軍事・政治・産業・科学の戦争挑発複合体が一掃され、人類社会全体が真に平和を愛し平和に満ちないかぎり、この地球に真実の平和は樹立できないということを、心に刻むべきでしょう。
 ところで池田会長、あなたは非常に重要な平和を志向する仏教団体の最高指導者です。これまで世界の軍縮を達成すべくなされてきた馬鹿げた努力について、あなたはどのようにお考えでしょうか。平和という目標は、どうすれば、さらに推し進めることができるでしょうか。平和という合理を戦争という不合理に打ち勝たせるために、世界各地の一般の男女が起こすことのできる、強力な行動はあるでしょうか。
13  池田 ただいま博士が「平和とは一つの無形の価値であり、心と精神の文化的な状態である」と言われたように、仏法においても、人びとの心・精神の中に確固たる文化的状態を実現するところに平和の鍵があると教えています。
 仏法では、戦争をひきおこす人間の心を“瞋恚”と説きます。瞋恚とは怒り、憎しみといってよいでしょう。さらにいえば、仏法はこの戦争のほかに、飢饉、疫病を根本的な災いとして挙げ、三災と呼んでいます。そして飢饉は人間の心の“貪欲”によって起こり、疫病は“愚癡”によって起こるとし、貪欲・瞋恚・愚癡を三毒と称しています。
 すなわち、これら三つの心の汚濁こそ、あらゆる人びとに苦しみをもたらす三つの災いの原因であると教えているのです。
 したがって、こうした災いを消滅させるためには、それらを生ぜしめている根っこを断ち切らなければならないのは当然です。すなわち、人間の心の中にある三毒をいかにして克服するか──これが仏法の取り組んだ課題であり、仏法の教えとは、その解決法にほかならないといえます。
 仏法は、人びとの心の中に強い英知と、広大な慈悲の精神を打ち立てる“法”を明かし、その英知と慈悲によって、貪欲・瞋恚・愚癡の三毒を抑制する道を示しました。博士が「平和とは……心と精神の文化的な状態である」と定義されたことは、この仏法の教えているところと見事に合致しています。
14  文化とは耕すことであり、馴致することです。三毒を野放しにし、その横暴に脅えているのは非文化的な状態です。英知と慈悲の心を強くしてこそ、これら三つの毒を馴致し耕地化して、これを賢明に抑制していけるのです。それは野生の馬や野牛を飼いならして労働力として活用し、火を使いこなして文化を生み、毒を変じて薬とするようなものです。
 人類は、これまで外なる世界を耕し、物質やエネルギー、生き物を馴致することには努力し、成功を収めてもきましたが、自らの心の内なる野生については、放置してきたといって過言ではありません。もちろん、倫理・道徳は、その部分的試みではありましたが、それだけでは、心の深層にある巨大な力に対してはあまりに無力です。
 平和のためになされた軍縮の努力も、所詮はこの最も大切な鍵を忘れていたところに、失敗の原因があったといえます。それゆえにこそ、私は「心と精神の文化的状態」の創出のため、仏法の教えを世界の人びとに伝え、めざめさせるべく全力を注いでいるのです。
 注1 訳註 キメラ=ギリシャ神話の、ライオンの頭・ヤギの体・ヘビの尾をもち、火を吐くという怪獣。
 注2 著者注 『二十一世紀への対話』(前出)。
 注3 訳註 カフカ的=カフカ的とは“空想的な”“夢物語的な”“因果律を無視した”の意。カフカ地政学は、ナチスの拡張論の基礎理論であった。

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