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日蓮大聖人・池田大作

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本因妙法蓮華経の本 本因の妙法弘通を本迹に立て分け

「百六箇抄」講義

前後
3  心底を揺さぶった実践を手本に
 ところで「百六箇抄」の現文では、大聖人の妙法弘通の文と不軽の修行を示す文のあいだに「手本には」記されております。
 すなわち大聖人の本因の妙法を弘通するにあたって、不軽の修行を「手本」にすべきであるとの仰せと拝せる。「手本には」とは、そこから学ぶべきであるとの意味であります。不軽の言動をそのまま末法の実践として取り入れるとうことではありません。
 ちなみに不軽菩薩は、迹仏である釈尊の過去因位の修行の姿にすぎません。故に、不軽が事実のうえに妙法の当体をあらわすことができず、ただ理として衆生に内在すする仏性を礼拝せざるをえなかったことは、今述べたとおりであります。
 日蓮大聖人とは仏としての力も資格も全く違っております。それにもかかわらず、不軽の修行から何を学び取れと仰せなのでしょうか。
 それは一言にしていえば、不軽菩薩が、種々の迫害にもかかわらず、上慢の衆生の生命に内在する仏性、妙法蓮華経に直接的に肉薄しようとした事実であります。
 常不軽という名前自体が、一切の衆生の生命は三世常住の妙法の珠を包んだ尊極なる当体であり、決して軽んずべきではない、という内容をはらんでおります。
 不軽菩薩は、その名前のとおり、但行礼拝をなしつつ人々の生命に内在する仏性に肉薄し、相手の心を奥底から揺さぶり続けたのであります。
 たとえ仏法を求めない衆生の心底の元品の無明を激発させることがあっても、またそれ故に迫害を被ることがあっても、衆生の仏性を開発し、妙法による生命変革を成し遂げさせずにはおかないという不退の決意が、不軽菩薩の実践に脈々と流れていたと思うのです。まさしく折伏という仏法弘通の方軌にほかなりません。
 日蓮大聖人の本因の妙法を弘通する方軌も、勧持品に説かれるように、折伏の行相を根本としております。ここに日蓮大聖人と不軽の姿は全く一致するのであります。
 故に「手本には」とは、本因の妙法の弘通において衆生の仏性そのものに直接的に肉薄し、その生命を根底から揺さぶった不軽菩薩の修行の在り方に学ぶべきであるとの意味と拝せましょう。
 いうまでもなく大聖人の仏法においては、事の一念三千の直体である御本尊の受持により、我が生命の内奥から妙法の血潮を顕現させることができます。また誰人であれ、御本尊の受持により直達正観が可能なのであります。
 大聖人の仏法は本因の妙法を直ちに行ずる大仏法であるからこそ、なおさらのこと、一切衆生の生命の底に脈打つ仏性に迫り、尊極たる当体を輝かせる折伏行を実践の根本にすべきなのであります。
 いかなる人とえども、妙法の珠をいただいた生命である。たとえ煩悩・無明の埃におおわれていても、その埃をぬぐいされば、まばゆいばかりの光明を放つ当体へと変革しうるはずです。
 衆生の心に堆積した無明の障壁を突き抜けて、その底流に脈動する妙法の当体に肉薄するには、それこそ不屈の決意と、血と汗の戦いが要請されるでありましょう。一人の人間の心底を電撃的に揺さぶる行為は、決して簡単なことではありません。不撓不屈の不軽の実践を手本とするとは、まさしくこの大実践をいうのであります。

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