Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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序文  

「百六箇抄」講義

前後
22  理の本迹一念三千・一心本迹三観本迹
 三世諸仏の出世成道の脱益寿量の義理の三千は釈迦諸仏の仏心と妙法蓮華経の理観の一心とに蘊在せる理なり。
 この場合、一念三千が境、一心三観が智となることはいうまでもありません。
 釈迦仏法においては、一念を三千と観じていくのが一心三観であります。いいかえれば、三千世間を空仮中の三諦と観じていくことが一心三観であり、つまり一心三観は一念三千を自身に観じていく方法であります。
 それ故に、釈尊三世の諸仏が一念三千・一心三観によって成道したといっても、結局は理にすぎないのであります。したがって、義理の一念三千では、真実の三世諸仏の成道はない。事の一念三千にいたって、三世十方の諸仏、また、あらゆる衆生の成仏の道が開けるのである。「南無妙法蓮華経」という根本の法理、電源に通じてこそ、一念三千という電灯に、灯が点ぜられるのであります。
 私達の場合は、さきほども述べた通り、事の一念三千が御本尊になり、その御本尊を信受することが受持即観心で、事の一心三観になるのであります。
 ありがたいおとに、下種・独一本門の仏法を持った私達は自らが苦しみ、悩み、ある場合は楽しむのも、一心の妙用としてあらわれる南無妙法蓮華経の所作であります。つまり、妙法という大網の中に動きゆく網目であるといってよい。
 迹といっても、本に基づかない迹というのではなく、独一本門という確固とした基盤に立った迹であります。あたかも一念の働きを心王と心数に分けたとき、心王を本とし、心数を迹とするごときものであるといえましょう。
 妙法を知らない人々は、大網を失ったようなものです。機関士や、そして、羅針盤を失った船のようなものであります。また糸の切れた凧のごとく人生の大海、大空を放浪者としてくるしまなければならない。
 私達は、久遠の一念に淵源を発しながら、あたかも名機関士を得た大船のごとく、人生の大海を航行し、また妙法という自己の生命の糸に結ばれて、裕然と大空を舞うがごとき人生となっていくことを誇りとしていきたいものであります。

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