Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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フレッシュマンの輝き 社会の大海原で 自己を鍛え抜け

2009.4.21 随筆 人間世紀の光5(池田大作全集第139巻)

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8   新しき
    君の職場で
      勝利せむ
    晴れの人生
      師弟は不二かと
 わが創価学会は、荒れ狂う時代の怒濤に、雄々しく立ち向かって創立された。
 学会創立の一九三〇年(昭和五年)は、前年の十月、アメリカのウォール街の株価の大暴落を契機とした、世界恐慌の渦中であった。
 先師・牧口常三郎先生は、民衆が苦悩する動乱の世だからこそ、「創価教育」の旗を打ち立てて、「子どもたちの幸福」の道を開きゆくことを願われたのだ。
 実は、この時、戸田先生の「時習学館」も、大恐慌の影響下で、厳しい試練に直面していた。さらにまた、設立まもない戸田先生の出販社・城文堂も、深刻な資金難に陥っていたのである。
 しかし戸田先生は、牧口先生の真情を知ると、むしろ師を励ますように、笑顔で申し上げた。
 「先生、やりましょう! 偉大な先生の学説を、今こそ、書物として発刊しましょう! 私の持てる財産も、全部、捧げます。裸一貫で北海道から出てきた私です。失うものなど、何もありません」
 そして、自らの事業の苦境も奮然と打開しながら、編集のみならず、資金面でも全面的に責任を担われ、『創価教育学体系』を出版していかれたのである。
 この弟子としての奮闘の歴史を、師は無上の誉れと、私に語ってくださった。
 「俺も大作と同じだよ」
 一九四九年(昭和二十四年)、緊縮財政政策「ドッジ・ライン」が実施された。
 インフレには歯止めがかけられたが、非情な「金融引き締め(貸し渋り)」によって、中小企業の倒産が続出した。
 戸田先生が経営され、その師にお仕えして、私が働く日本正学館も、不況の直撃を受けた。出版は一切、休刊である。
 加えて、状況打開のために、着手された「信用組合」も経営が悪化し、当局から、業務停止命令を出される最悪の事態となった。翌年(一九五〇年)夏のことである。その絶体絶命の危機の中で、私は、ただ一人、命を賭けて、戸田先生をお護りし抜いた。師子奮迅の戦いで、事業の苦境を打開していった。
 烈風も、秋霜も、吹雪も、すべてを乗り越え、あの晴れわたる先生の第二代会長就任の五月三日を迎えたのである。
 「師弟不二なれば、何事も成就す」──この究極の勝利の劇を、永遠に刻み残してきたのが、創価の三代の師弟である。
 そして、この魂を、今、わが社会部、わが専門部の同志をはじめ、あらゆる職場、あらゆる仕事の現場で、創価の英雄たちが受け継いでくれている。なんと頼もしい晴れ姿か!
9  社会部で生き生きと活躍する、創価同窓の女性から、嬉しい便りをいただいたことがある。
 世界規模の事業展開をしているメーカーに入社した。最初は、遣り手のベテラン社員にまじって会議に出ても、聞いたこともない専門用語が飛び交い、呆然とするばかり。悪戦苦闘の毎日が続いた。
 しかし、創価の「負けじ魂」で発奮した。毎朝五時に起きて、唱題そして猛勉強を重ねた。朝は一番乗りで出社し、職場の雰囲気を盛り上げていった。そして入社二年目にして、実に、年間二億円という全国トップの営業成績を収めたのである。
 その仕事ぶりをじっと見ていた上司は、「あなたはいつも元気で、前向きで、周りの人を幸せにしてくれる。だから、創価学会は善だと思う」と語り、自ら希望して学会へ入会された。
 信心を根本に、師弟の結合を力として、多くの友が、荒波を勝ち越え、社会に厳たる実証を示してくれている。
 誉れの共戦の盟友に、健康あれ! 栄光あれ!
 私は、妻と夫婦して祈り続ける日々だ。
 「鉄鋼王」と謳われたアメリカの実業家カーネギーは、青年を励まして語った。
 いかなる道であれ、「その道の達人になろう」と決めることだ(『鉄鋼王カーネギー自伝』坂西志保訳、角川書店)、と。
 自分のいる場所で、プロになれ! 一流と輝け!
 若き新社会人の皆さんは、未来の「達人」を目指して、今日も明日も、フレッシュな息吹で、走り進むことだ。
 私は待っている。君たち、あなたたちが、人生と社会の「勝利の達人」と飛翔しゆく、その時を!
 それが、私と皆さんとの「約束」だ!
 頑張れ、創価のフレッシュマンだちよ!
  君もまた
    尊き創価の
      勇者なば
    誠実一路で
      この世かざれや

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