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日蓮大聖人・池田大作

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青年よ広布の革命児たれ(上) 師匠の「志」を行動で受け継げ!

2007.12.19 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

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5  戸田先生は、晋作が好きであられた。
 「一度、会ってみたかったなあ......」と先生が言われた、歴史上の豪傑の一人である。
 先生と二人して、晋作の人物論を誇り合ったことも、懐かしい。先生が「大作、大作」と呼ばれるうちに、「晋作、晋作」になっていることも、しばしばあった。
 私の妻にも語ってくださったことがある。
 「晋作には、"萩城下一の美人"とうたわれた、雅子という妻がいた。
 だが、東奔西走の日々であった晋作とは、一緒に過ごす時間は、はとんどなかった。
 しかし、賢明な妻として、母として、家を守り、立派に子息を育て上げている。
 香峯子も同じだな」と。
 戸田先生が、晋作という人間の魂の真髄に見出しておられたのは、何か。
 それは、師への仇討ちの執念である。
 刑場で命を落とし、罪人として小塚原に葬られた師・松陰の遺骨を、晋作たちが改葬したのは、文久三年(一八六三年)の正月のことであった。
 この時、晋作は二十五歳。晋作が先導して、師の遺骨を運ぶ行列は、荏原郡の若林村(現在の世田谷区内)へ向かった。道中、上野台の側を流れる忍川に至り、三橋という橋を渡ろうとした時のことだ。
 そこに立つ番人が、この橋は将軍が通る橋だから、不浄のものは使用できぬと制止したのである。
 晋作は激怒した。大声で一喝した。
 「勤王の志士の遺骨を改葬するのに何を言うか」(中原邦平「高杉東行の事績一班」、『防長史談会雑誌』2所収、国書刊行会)
 あまりにも烈々たる気迫に、番人は即座に退散した。
 わが偉大な師匠を侮辱する者は、この命を賭しても許さぬとの師子吼であった。
 「自らず未だ舊寃きゅうえんそそあたわざるを(私は自らを恥じている。いまだに師の仇討ちを果たしていないからだ。必ず果たしてみせる)」(堀哲三郎編『高杉普作全集』下、新人物往来社)
 有名な一詩は、晋作が、松陰の墓前で詠んだ叫びである。
 戸田先生は、この晋作の魂に、獄死した牧口先生の仇討ちに立ち上がった、ご自身を重ねておられた。
 そして、不二の弟子である私を見出しておられたのだ。
 私は、山口・萩の松下村塾の史跡に足を運び、友に語ったことがある。
 「松陰も偉かったが、弟子が偉かったから、松陰の名が世に出たのだ。
 恩師・戸田先生の偉大さも、弟子の私たちが宣揚しなければ、世界の人びとに示し、先生の名を世に出すことはできない。
 これが、弟子の道だよ」と。
 戸田先生との出会いから六十年。私は牧口先生と戸田先生を、正義の大偉人として、全世界に宣揚した。
 師の正義を叫び抜いた人生に、一点の悔いもない。

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