Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

聖教は勝利の力 寒風の日々 尊き「無冠の友」の無事を祈る

2007.11.30 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

前後
1   寒風を
    突いて 毎朝
      聖教を
    配達嬉しや
      諸天よ 護れと
 東京で"木枯らし一号"が吹いたころ、北海道、東北、北陸、信越などでは、激しい雪に見舞われた。
 全国で、聖教新聞を配達してくださる「無冠の友」の皆様方には、いつにも増してご苦労をおかけする時期になった。
 北海道のニセコ連峰などに囲まれた蘭越町らんこしちょうでは、毎朝、五十キロを超える距離を車で回り、配ってくださっている「無冠の母」がおられる。
 山形県の村山市には、日々、山あいの険しい道を一時間以上かけて、この四十年にわたり、配達し続けてくださった「無冠の父」もおられる。
 十九世紀のドイツの詩人メーリケに、「冬の朝 日の出前に」という詩がある。
 「心はさわやかに遠くへと向かい
 胸躍るようなたくましい感情がなんと沸き起こることか
 今日の日の最初の活力に浸って
 あらゆる敬虔な仕事への勇気を感じる
 魂は大空の果てまでかけめぐり
 創造的精神が私のなかで歓声を上げる!」
 「たちまち眼がきらっと光り そして神の如く陽が躍り上がって王者の飛翔を開始する!」(『メーリケ詩集〔改訂版〕』森孝明訳、三修社)
 旭日よりも早く、凍てつく闇を打ち破り、さっそうと胸を張って行動されゆく皆様方があればこそ、広宣流布の熱と力が全同志に脈打っていくのだ。
 蓮祖大聖人は、わざわざ使いを立てて、厳寒の山道を越え、真心を届けてきた弟子を讃えられて仰せである。
 「雪つもりて山里路たえぬ」「友にあらずばたれか問うべき」──雪が降り積もって、山里に通う路も途絶えてしまった。真の友でなければ、誰が訪ねてくるであろうか、と。
 聖教新聞は、大聖人が御賞讃の精神のままに、広宣流布を遂行する機関紙である。
 無冠の友の皆様は、聖教新聞を通して、御本仏の御心を、一軒また一軒に、届けてくださっているのだ。
 この尊極の方々を三世十方の仏菩薩、無数の諸天善神が讃え、護らないはずがない。
 鳥取県の若桜町わかさちょうでは、三十年近く前には、町で四部であった友人の聖教購読が、今では百部にまで広がった。
 その推進の力は、地域で信頼を広げる「無冠の友」であり、誠実な同志である。
 私自身、草創の学会本部のあった西神田で、創刊まもない聖教を、近隣に啓蒙しながら配って歩いた。今も懐かしい思い出だ。
 聖教の配達は即、広宣流布の前進であり、拡大である。その功徳は計り知れない。
 この冬も、私と妻は、祈りを込めて「無冠の皆様方よ、絶対無事故で、健康長寿で、絶対勝利で!」と、懸命に題目を送る日々である。
 そしてまた、聖教は、全国の販売店や深夜の輸送に携わる関係者など、多くの方々の尊き労苦に支えられている。私は、皆様方の陰の大偉業に心から感謝申し上げたい。
2  ある日ある時、人生の師である戸田城聖先生が、小さな座布団一校の上で美事に舞いながら、歌の指揮を執られたことがあった。
 そして私に、「よく見ておきなさい。大将軍たる者は、どんなに小さな一隅からでも、全軍を指揮していくのだ」と教えてくださった。
 聖教新聞の紙上においても、恩師が執筆された一面の「寸鉄」は、"小さな一隅"から、痛烈に敵を討ち、創価の進軍を指揮するものであった。
 一本の見出しが、読者の胸に火を点す。
 記事の一節が、読者の人生を劇的に変える。
 そういう「力」が、新聞にはある。
 それが、真実の言葉のもつ偉大な底力だ。
 だから、私も真剣である。必死である。懸命である。
 一番大切な同志へ、励ましを贈りたい。社会へ、世界へ、仏法の英知の光を発信していきたい。
 小説『新・人間革命』も、スピーチ、メッセージ、さまざまな随筆、和歌や句も、心血を注いで残させていただいている。
 「書いて、書いて、書きまくれ!」と、戸田先生の声が今も耳朶から離れない。
 聖教新聞に記事の載った友に、赤ペンで激励の言葉を書いて贈ることもある。
 先日も、南米ボリビアの社会貢献の友の笑顔が弾ける一面に、私は認めてお贈りした。
 「偉大なるボリビアの同志、万歳! 皆様に益々の栄光あれ! 合掌」
 ともあれ、有名な御聖訓に「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せだ。
 新聞は一日また一日、新鮮でなければならない。惰性やマンネリは新聞の敵である。
3  スイスの哲学者ヒルティは言った。
 「偉大な思想は、ただ大きな苦しみによって深く耕された心の土壌のなかからのみ成長する。そのような苦痛を知らない心には、ある浅薄さと凡庸さが残る」
 聖教新聞の誇りは、御書に説かれる通り、三類の強敵と戦い抜いてきたことである。
 「記念撮影の写真は、できるだけ大きく!」
 移動のバスの中で、私は、聖教の記者に言った。
 それは、昭和五十六年、師走の十二日のことである。
 大分県竹田市の岡城址で、「第一次宗門事件」の嵐を勝ち越えた地元の約三百人の同志と、勝利の記念撮影を終えて、私たちは熊本県に向かっていた。
 写真の扱いをどうするか。私は記者の前で祇面を広げ、"これぐらい大きく"と、指で二面から三面にわたって、四角を描いて見せた。
 記者が驚いて言った。
 「二、三面にまたがると、真ん中で、顔が切れてしまいますが......」
 確かに一ページに収めた方が、きれいだろう。しかし、一人ひとりの顔は小さくなって、誰が誰だかわからない。
 理不尽な宗門の迫害に、苦しみ抜いてきた同志ではないか。悔し涙で大難を耐え抜き、乗り越えてきた正義の勇者たちではないか。この堂々と勝ち誇った庶民の姿を、全読者に、いな満天下に伝えたい。後世に厳然と留め、永遠に宣揚したい。
 一枚の写真で「大勝利宣言」をするのだ!
 この偉大な庶民の笑顔で、邪悪な恩知らずの連中の陰謀を、「風の前の塵」の如く、痛快に打ち払うのだ!
 十二月十四日、二ページにまたがる破格の記念写真が、電撃的に聖教新聞を飾った。
 さらに、この写真の「大勝利宣言」は、熊本で、神奈川の箱根で、雪の秋田で......と、各地で続けられた。
 それは、感激の衝撃波となって、全国の同志を鼓舞し、正義の反転攻勢の大渦を巻き起こしたのである。
4   広宣の
    流布と真実
      伝えむと
    走りし功徳の
      聖教城かな
 有名な御聖訓に、善無畏三蔵抄の一節がある。
 「たとえ強言(強い言葉)であっても、人を救うならば実語(真実の言葉)であり、心地よい軟語(やわらかい言葉)である。
 たとえ軟語であっても、人を不幸に陥れるものは妄語(ウソ)であり、ただの粗悪な強言である」(同八九〇ページ、通解)
 人を救う真実が述べられた言葉なのかどうか。そのための慈悲の言葉なのかどうか。大聖人は、ここに言論の根本の基準を置いておられる。
 「方方への強言申すに及ばず是しかしながら而強毒之の故なり
 「方方に強言をかきて挙げをき候なり
 断固として、人びとを救い、濁世を善くせずにはおかない! この「立正安国」の正義を、蓮祖は叫びに叫び抜かれたのである。
 やがて、それまで反対だった人びとも、動執生疑を起こして変わり始めた。南無妙法蓮華経の題目を唱える人も増えていった。
 なぜ、世間の人びとの心が変わったのか。
 その理由を、大聖人は、「日蓮が強言より起る」と仰せになられている。
 いかなる大難にも屈しない、破邪顕正の「強言」だからこそ、そしてまた慈折広宣流布のための「強言」だからこそ、人びとも正法正義に目覚め始めたのである。
 聖教新聞は、この大聖人の「強言」の大闘争心を受け継ぐ、正義の言論城である。
 信念の「強言」で、敵を打ち破るのだ。
 確信の「強言」で味方を広げるのだ。
5  「正義を守れ!」(『カレル・チャペックの警告』田才益夫訳、青土社)
 チェコの作家チャペックも、新聞に対して、この一点を望んでやまなかった。
 チャペックは、ナチスなど極悪の独裁権力と、毅然と言論で戦った闘士である。
 彼は、悪に対して沈黙するなと訴えた。
 「沈黙することで、あなたも悪に協力していることになるからです。悪口を無責任にはびこらせることで、あなたは責任を放棄しているのです」
 「中傷にたいして沈黙しているあなたは道徳的に弱虫です。そうですとも、話されようが書かれようが、言葉には責任が求められます。その責任を回避するものは単純に嘘つきと断じてください」(同前)
 悪意と嫉妬のどす黒い心で、何の証拠もない無責任な嘘を撒き散らす言論の暴力が、どれほど社会を堕落させるか。
 その害毒と戦い、社会を向上させゆく清々しい真実の論陣を、今こそ厳然と、打ち立てゆくことだ。
6  中国の名門・武漢大学の虞崇勝ぐすうしょう教授が、聖教新聞に素晴らしい所感を寄せてくださったことがある。そこには、聖教新聞が希求する「精神の品格」は、四つの文字で表すことができると記されていた。
 第一に「高」──出発点も、目指す理想も高い。
 第二に「潔」──確固たる信念に基づいて潔い。
 第三に「美」──内容も、新聞の作りも美しい。
 第四に「実」──真実であり、現実を直視している。
 なかでも「潔」(潔さ)の一項目として、「邪悪な勢力に対する不屈の闘い」をあげておられた。すなわち──
 聖教新聞は、国際的には、「戦争と暴力の文化」から「平和と非暴力の文化」への転換を訴えている。
 国内にあっては軍国主義に反対し、「国益優先」から「民衆主体」の日本への転換を主張してきた。宗教界では、堕落した極悪の勢力に対し、一歩も引くことなく闘争し、清廉公正で、真の信仰心を確立するための手本となっている──と。
 見る人は見ている。鋭く正視限で評価してくださっている。
7  「新生の事物は、つねに声をはりあげるものであり、この旧い世界を改造しようとする。これは革命的気概である」(『周恩来〈1926年〜1949年〉日本語版《周恩来選奨》』翻訳室訳、外文出版社)──中国の周恩来総理の言葉であった。
 新中国誕生の三カ月ほど前(一九四九年七月)、今まさに勃興する「偉大な時代」を表現しゆく大文芸を期待しての叫びであった。
 生き生きと新時代の開幕を告げるのも、新鮮な新しき声であり、力強い言論である。
 邪悪に対しては正義を!
 虚偽に対しては真実を!
 師子の吼ゆるが如く「声をはりあげる」言論こそ、新しき精神革命の原動力だ。
 誇らかに叫び抜け、創価の師弟の栄光を!
 広宣流布の第二幕を、聖教新聞とともに開きゆくのだ!
  偉大なる
    広宣流布の
      聖教は
    平和と勝利の
      不滅の指針と

1
1