Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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後継の弟子の道 我らは『師の叫び』を忘れまじ

2006.5.20 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

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5  「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず
 日蓮大聖人は弘安二年、「出世の本懐」たる大仏法の精髄を打ち立て、一切の「正」と「邪」の決着をつける大闘争のなかで、厳然と仰せになった。
 最後は正義が勝ち、邪悪は無残に敗れ去る。これが仏法の真実の証明だ。
 そして蓮祖は、弟子たちに対して、「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と厳しく指南されたのである。
 「つよる心」「戦う心」を失えば、魔が忍び込む。
 だから一瞬一瞬、一日一日が、仏と魔の戦いなのだ。
 大聖人は、退転し、反逆していった弟子について、こう喝破なされている。
 「日蓮の弟子の少輔房といい、能登房といい、名越の尼などといった者たちは、欲深く、心は臆病で、愚かでありながら、しかも自分では智者と名乗っていた連中だったので、ことが起こった時に、その機会に便乗して、多くの人を退転させたのである」(御書一五三九ページ、通解)と。
 現代にも蠢いている恩知らずの連中の本質を指しておられる、誠に厳しい御書である。
 これが、学会に大恩を受け、立派にしてもらい、あらゆる面で守ってもらいながら、鬼畜の如く裏切っていった、幾人かの欲深い大謗法の愚者たちの本性である。
 彼らの慢心、無知、気取りや、人間にあるまじき忘恩背信は、皆様がご存じの通りである。後世の戒めとするために、その末路を笑いながら見つめていこうではないか。
 師の指導を、我が身に引き当てて、真摯に姿勢を正していくのか、他人事のように聞き流していくのか――。
 この「如是我聞」の一念の厳しき差に、師弟を貫いていけるか、愚かなる人間と堕ちていくか、全く厳しい勝敗の分かれ道がある。
 ゆえに、仏法は「勝負」だと仰せなのだ。
 「まことの時」との御聖訓は、「いつか」ではない。
 常に常に、また常に、「今」である。「今から」なのである。
6  あの有名なクラーク博士とほぼ同じ時代を生きた、私の大好きな民衆詩人ホイットマンは、若き弟子に語った。
 「情熱――それなくして、人間と呼べようか?」(With Walt Whitman in Canaden, vol.4, University of Pennsylvania+Press)
 その通りである。
 さらに、フランスの文豪ユゴーは叫んだ。
 「私は、虚偽を売りつける聖職者(坊主)や不正に人を裁く人間とは、断固、戦う」(The Letter of Vivtor Hugo, Paul Meurice, University Press of the Pacific)
 創価の「破邪顕正」の大精神も、全く同じである。
 また、イギリスの歴史家カーライルは訴えた。
 「最初に『越えがたき難所に道を切り拓く』その人に誉れあれ! かくのごときが実に、すべて偉大な人間の任務である、――否、東西のあらゆる善き人の任務である」(『ゲーテ論』神吉三郎訳、育生社)
 これは、私の青春時代から大好きな言葉であった。若きわが弟子たちよ、私のあとを継げ!
 初代・牧口先生、二代・戸田先生の大正道である「法華経の道」「創価の道」を断固として勝ち進め!
 悠然と、晴れ晴れと、勝ち進め!
 君たちの栄光の青年部結成五十五周年、おめでとう!
 本当に嬉しい。
 一人ももれなく、勇気と勝利の雄々しき情熱を燃やしながら!
 一人ももれなく、勝利者となれ!
 私のあとを継げ!
 誇り高く、黄金の「創価後継の大道」を歩み抜け!

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