Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「真実」と「虚偽」を語る〔1〕 提婆の大嘘を打ち破れ!

2006.2.8 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

前後
4  文永八年(一二七一年)の夏、大聖人は、欺瞞の良観を「祈雨の勝負」で完膚なきまでに打ち破られた。
 どうしても雨を降らせることができず、ただ汗と悔し涙のみを流している良観に、大聖人は三度まで使いを遣わされて責められた。
 「一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか
 この有名な一節は、目先の問題さえ解決できぬ良観に、どうして成仏という根本の願いを叶えられようかと、痛烈に呵責された仰せである。
 しかし、良観は、自らの敗北を潔く認めないどころか、嫉妬と怨念に狂って、卑劣な讒言を各所へ広げていった。
 さらに姑息にも、自分は陰に隠れ、手下の念仏者・行敏を表にして、嘘だらけの訴状を幕府に提出したのである。
 大聖人は即座に、裁判の答弁書である「陳状」を記して、迎え撃たれた。裁判によって「邪見を打ち破り、正義を興隆させる」好機が来たことを、「幸甚幸甚」と高らかに喜ばれているのだ。
 末法という時代の本質は、「闘諍言訟」である。仏法内の争いが激化するのだ。また、それは、正と邪、善と悪、真と偽が入り乱れた、争乱の渦巻く社会相といってよい。
 だからこそ大聖人は、法廷という「公の場」を、正義と真実を打ち立ててゆく絶好の機会とされたのである。
 大妄語の良観の訴えには、「各寺の本尊である阿弥陀や観音等の仏像を火に入れて焼却したり、水に流したりした」(御書一八一ページ、通解)などとあった。もちろん、根も葉もない嘘八百であった。
 大聖人は、鮮やかに反撃をされている。「この件は、確かな証人を出すべきである。もし証拠がなければ、これらの悪事は、良観上人らが自ら行って、その科を日蓮に負わせようとしているのであろう。詳細は、糾明すれば明瞭になるに違いない」(同ページ、通解)
 確かな「証人」を出せ!
 明らかな「証拠」を示せ!
 あらゆる虚偽への反論は、いな、反撃は、この「切り返し」から出発し、この「打ち返し」に帰着する。
 御書には、繰り返し「その証拠はいったい何か」「もし証拠がなければ、誰人が信ずることができようか」等と問い糺されている。
 大聖人は、証拠なき強弁など、「舌に任せたる言」――"口からでまかせ"に過ぎないと一蹴なされた。
 ある裁判に際しては、相手の出した「証文」が偽造の「謀書」だと見破るよう指南されている。
 仏法は厳しい。
 仏法は正しい。
 そして仏法は、あまりにも大きい。
 仏法には「社会」も入っている。「世界」も入っている。そして「宇宙」も入っている。それであって、「人間」が厳然と入っている。
 人類全体の宿命の打開を遠大に展望しつつ、小さな一つの嘘も見逃さない。
 これが、正義の仏法の真髄なのである。
 富士の山
   創価の姿も
      同じかな

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