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日蓮大聖人・池田大作

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伝統の「座談会」の思い出〔上〕 会場提供者を大切に!参加者を真心で!

2006.1.19 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

前後
1  希望に燃えて、日本列島の隅々で、「青年・躍進の年」の第一回の座談会が行われている。
 座談会は、初代会長・牧口先生以来の学会の偉大な伝統である。
 それは、「地域友好の広場」であり、「言論の自由の会座」であり、「民主主義の対話のモデル」である。
 人間と人間が触れ合い、支え合う「理想の共和」の姿といってよい。
 今、世界の知性も、創価の「座談会運動」に深く刮目する時代に入った。
 このほど、アメリカの「平和研究の母」エリース・ボールディング博士と私の対談集『「平和の文化」の輝く世紀へ!』(本全集第114巻収録)が完成した。
 かつて博士は、日本で座談会に出席した思い出を、しみじみと語っておられた。
 「私は、車座になって、座談会を行っていた婦人部の方々とお会いしました。
 そこで私は、本当の人間の精神を感じたように思いました。
 家族と過ごしているような温かさを感じたのです」
 そして博士は、座談会に、「互いの顔が平等に見える」「互いの話をよく聞き、互いに知り合うことができる」「心を一つにして目的へと進むことができる」など、「平和の文化」の先端の在り方を見出されているのである。
 また、私と対談集『社会と宗教』を発刊した、オックスフォード大学のブライアン・ウィルソン名誉教授も、座談会運動を絶讃されていた。
 創価学会こそ、「非人間的な傾向が強まる現代社会において、新たな人間共同体を生み出している」(「聖教新聞」1997年11月6日付)と、高く評価してくださったのである。
 さらに、私が親しく語りあったアメリカ実践哲学協会のルー・マリノフ会長も、こう語っておられる。
 「信仰者同士の対話は、実に重要です。それによって、信徒は"羊"で、僧侶はそれを追う"羊飼いの犬"であるという、古い宗教の形式から離脱することができるからです。
 実は、哲学者もまったく同じ視点からの実践を行います。すなわち、体験を共有することによって、より豊かな人間観を築く。そして、他人の話に耳を傾けることによって自分自身をより深く知る、という実践です」(「聖教新聞」2002年9月26日付)
 牧口先生が提唱された「座談会」が、どれほど偉大な先見であったか。その意義は、時代とともに、いやまして深まっている。
2  座談会には、皆、多忙のところ、また疲れたなか、来てくださる。
 であるがゆえに、そこには、真心からの「励まし」が必要である。「ねぎらい」があり、「癒し」がなければならない。
 誰もが「来てよかった」と納得し、満足できる"心のオアシス"としていくことだ。
 法華経の普賢品には、「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」(法華経六七七ページ)と説かれている。
 「(法華経を受持する人を見たならば)必ず、立ち上がって遠くまで出迎えるべきことは、まさに仏を敬うようにすべきである」ということである。
 法華経における釈尊の壮大な説法は、この言葉で結ばれている。
 この一文を、御義口伝には、「法華一部の要路」、「最上第一の相伝」とされた。
 要するに、法華経の世界においては、「増上慢」は決して許されない。「独裁」は断じて認められない。
 本当の親切、本当の尊敬の心で、同志を迎え、友と語りあっていくことである。
 牧口先生は、座談会に行かれると、常に、まず会場のご家族に丁重に挨拶し、最敬礼して感謝なされた。そして、まさに「仏を敬うが如く」に、参加者を真心込めて迎えていかれたのである。
3  「座談会の会場」を大事に! 「会場を提供してくださるご家族」を大切に!
 ――この原点を、もう一度、深く確認しておきたい。
 思えば、日蓮大聖人御自身、お住まいを広宣流布の拠点とされていた。
 牧口先生も、戸田先生も、ご自宅を拠点として開放されていた。
 私の妻の実家も、牧口先生時代からの拠点であり、わが家も会場に使っていただいた。
 ともかく、会場を提供してくださるご家族がどれほど大変か。幹部は、そのご苦労を、深く知らねばならない。ゆめゆめ、当たり前と思ってはならない。
 「礼儀」正しく、そして「誠意」をもって、心から「御礼」を言っていくことである。
 会合が終了した後は、拠点のご家族とも相談しながら、幹部が率先して掃除を行うなど、細かく配慮していきたい。
 お手洗いなども、汚さないように心がけていくことは当然である。
 いうまでもないが、煙草のマナーも大事である。個人会場も、学会の会館に準じて、禁煙が原則である。
 また、終了後、打ち合わせ等で長引くことなく、解散時間を厳守することを徹底していきたい。
 さらに、駐車や自転車の駐輪、私語などで近隣に迷惑をかけることがないよう、注意し合いたい。
 ともあれ、会場を提供してくださるご家族が、「皆が来てくれてよかった」と喜んでいただけるように、心を砕いていくことだ。
 これが学会の伝統である。
 「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」との御聖訓を、よくよく拝していかねばならない。
 役職や立場を超えて、学会のかけがえのない大功労者であられる会場提供のご家族を、最大に大事にしていくことだ。
 受験生を抱えているご家庭もある。細心の配慮と温かな励ましをお願いしたい。法 華経の随喜功徳品には、「もしも法を講義する場所で、他の人に、勧めて座らせ、経を聴かせるならば、この福徳をもって、帝釈天・梵天・転輪聖王の座を得るであろう」(法華経五二六ページ、通解)と謳われている。
 ほかでもない、座談会場に喜び集われた、尊き皆様方の大福徳を説かれたものと拝したい。
 そして、一家眷属も、「大指導者の座」についていくという、大境涯が厳然と開かれていくのである。
 また、広宣流布のための道場を提供され、仏に等しい同志のために尽くされるお宅には、無量無辺の福運が、「万里の外より」集まる。
 これは、仏法の因果の理法に照らして、絶対に間違いない。
4  私が、人生の師である戸田先生に巡り会い、仏法を知ったのも、座談会であった。
 昭和二十二年の八月十四日の夜、蒲田の糀谷で行われた座談会――ここで、四十七歳の師と、十九歳の弟子は出会ったのである。
 翌日は、二度目の敗戦記念日であった。
 戦後の荒廃のなか、正しい人生を求めて、青春の魂の遍歴を続けていた私は、「立正安国論」を講義される先生の気迫に打たれた。いな、先生の人格に圧倒された。
 そしてまた、この貧しい庶民の集いが、かくも明るく、かくも深遠な哲学性をもっていることに感動した。
 多くの方々がそうであるように、座談会は、私が学会を知った原点なのである。
5  戸田先生は、座談会を最大に大事になされた。
 事前の打ち合わせも、まことに綿密であった。
 「司会」を誰にするか。
 「内容」をどうするか。
 一つひとつを、決しておろそかにされなかった。
 そして「私がこう話すから、あなたはこのように話してあげなさい」等と、呼吸会わせも万全であった。
 そのうえで先生は、「形式などに、とらわれる必要はない。初めて来た人も『本当に楽しい!』『よく、わかった!』と言える雰囲気をつくってもらいたい。そうでないと、かわいそうだ」と教えられた。
 戦時中、牧口先生が起訴された理由の一つに、二年間で二百四十回以上にわたり、座談会を開催したことが挙げられている。
 私の妻の実家で牧口先生が出席された座談会にも、三人の特高刑事が来て、厳しく監視をしていた。
 まさに、座談会は、「言論戦」「思想戦」の場であり、「不惜身命」「死身弘法」の大闘争の法戦場であった。
6  その先師の心を偲んで、私は、座談会に真剣勝負で臨んできた。
 1952年(昭和二十七年)、あの広宣流布の拡大の突破口を開いた「二月闘争」のころ、多摩川を渡って、川崎での座談会に出席した時のことである。
 新来者の一人の青年が、ガムを噛み、柱に寄りかかりながら、尊大な態度で、何ともいえない嫌な雰囲気を漂わせていた。
 私は、丁寧に、しかし毅然と語った。
 「だらしない格好で、大聖人の偉大な仏法を聞き、正邪を判断することはできません。学んでいくこともできません。道を求めてこられた、ほかの方の邪魔になります。どうぞお帰りください」
 驚いた青年は、居住まいを正して、私の御書講義に耳を傾けるようになった。
 その青年が入会したと報告を受けたのは、座談会から二日後のことであった。
 蒲田で、文京で、荒川で、葛飾で、また、札幌で、大阪で、山口で――恩師の願業たる広宣流布の道を開かんと、私が戦い行くところ、座談会は満員だった。同志も勇んで応えてくださった。
 真剣な語らいのさなか、目の前から、人の姿が消えたこともあった。なんと、重量オーバーで、床が落ちてしまったのだ。
 一度は、横浜の保土ケ谷での座談会のことである。
 また、荒川に入っていた時のこと。質問会になり、一人の少年が手をあげたが、顔がよく見えない。司会が"立って質問してください"と言うと、元気いっぱいの返事がはね返ってきた。
 「立ってます!」
 これまた、床の一部が沈んでいたのであった。
 当時は皆、貧しく、家も古かった。だが、皆、朗らかであった。皆、誇り高かった。
 会場のお宅には、ご迷惑をおかけしてしまったが、その後、堂々と、大福運の境涯を開かれていった。
7  1953年(昭和二十八年)、低迷していた文京支部をA級支部に飛躍させるために奔走するなか、私は、相模原での地区座談会に出席した。
 参加者のなかに、「法論」をするために来ていた新宗教のリーダーがいた。
 私は三つの質問をした。
 「宗教とは何か」
 「生命とは何か」
 「幸福とは何か」
 そのリーダーは、何も答えられなかった。真っ青な顔をして震えていた。
 私は言い放った。
 「人の不幸を取り除き、幸福にできない宗教は最低です。今後、布教はしないという証文を書いてください」
 彼は震える手で、ようやく証文を書くと、逃げるように去っていったのである。
 さらに昭和三十一年の大阪の戦いでも、私は座談会で拡大の波を起こしていった。
 今の東大阪方面で行った座談会では、十八人おられた新来の友人のうち、十七人が入会されたこともあった。
 御聖訓には、「すべからく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」と仰せである。
 座談会を舞台にした思い出は幾重にも尽きない。
8  仏教発祥の大地インドからも、嬉しい報告が届いている。
 アショーカ大王の時代の首都で、私が四十五年前に第一歩を印したパトナでも、現在、五十人のメンバーが活躍され、はつらつと地区座談会が開催されている。
 五年前、私に名門プルバンチャル大学の名誉文学博士号を授与してくださったパタンジャリ副総長も、"SGIの社会的活動だけでなく、その精神性をもっと理解し、行動をともにしていきたい"と強く希望され、デリーの座談会に出席されていると伺った。
 かつて、カニシカ王が第四回仏典結集を行ったとされ、仏教文化が栄えたインド北西部のカシミール地方は、残念ながら、長年、紛争が絶えない。
 しかし、この地でも、友人を交えて、「平和の仏法」を語る座談会が真剣に、また堅実に開催されている。
9  戸田先生は、よく言われた。
 「地道でなければ、偉大な事業を成し遂げることはできない。地道でなければ、難攻不落の城を築くことはできない」と。
 地道といえば、座談会ほど地道な戦いはない。
 しかし、だからこそ崇高なのである。だからこそ不滅なのである。
 小さな、小さな、この庶民の集いから、善と正義と連帯をば、地域へ、社会へ、世界へと広げていくのだ。
 最前線の座談会の勢いが、そのまま、学会の広宣流布の勢いである。
 戸田先生が、かつて聖教新の「寸鉄」に残された言葉を、今再び、心に刻みたい。
 「小さな座談会が大切な時がきた。幹部は足マメに歩いてみよ」

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