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日蓮大聖人・池田大作

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若き正義の英雄・男子部(上)  

2004.12.9 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

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5  この十一月十五日、東京富士美術館で、「ヴィクトル・ユゴーとロマン派展」を、青年たちとともに鑑賞した。フランス国宝である『レ・ミゼラブル』の自筆校正刷りをはじめ、展示作品も、一点一点、まことに美事である。
 随所に掲げられたユゴーの箴言も、みな懐かしかった。その一つ――
 「獅子には狐のしきたりはない」(Andre Maurois, Olympio ou la vie de Victor Hugo, Hachette.)
 獅子は、どこまでいっても獅子だ。狡猾にして卑劣な狐の群れが、いかに吠えようとも、
 獅子は微動だにしない。
 さらにまた、あの『レ・ミゼラブル』で、ユゴーが謳い上げた″青春の讃歌″も記されていた。私は、青年に返った気持ちで読み上げた。
 「どんな若者でも、健康で、力強く、歩きぶりも元気がよく、目がかがやき、熱い血潮がからだをめぐり、髪は黒く、頬は若々しく、唇はバラ色で、歯は白く、はく息も清らかであれば、どんなに貧しかろうとも、年老いた皇帝から いつでも うらやましく思われるだろう」(『レ・ミゼラブル 2』辻昶訳、『ヴィクトル・ユゴー文学館』3所収、潮出版社)
 ユゴー研究の第一人者・辻昶先生の不滅の名訳だ。辻先生は、創価大学の名誉博士でもあられ、私もお会いし、有意義な対談をした。
 ユゴーが叫んだ如く、王冠よりも、玉座よりも、金色の光を放つ至宝は、青年の命そのものである。若き正義の丈夫こそ、最も尊貴なる生命の帝王なのだ。ゆえに、ユゴーは、青年を愛し、青年に託した。青年も、ユゴーを信じ、ユゴーに応えた。
 「ユゴー展」の一隅に、一人の二十代の青年が、大迫害と戦う、人生の師ユゴーに捧げた手紙が置かれている。
 「私には、親愛かつ偉大な貴方(=ユゴー)のお名前が危うくなるような、あらゆる批判に対して、力強く抗戦する用意ができておりますことを、再びお約束いたします」(「ヴィクトル・ユゴーとロマン派展」カタログ、岡田朋子訳、東京富士美術館)
 私は、胸が熱くなった。人間の真髄である「師弟」の姿を、垣間見る思いであった。
6  青年よ、若き丈夫よ! 君たちが主役なのだ。君たちの舞台なのだ。君たちの世紀なのだ。仏法の因果律から見れば、青年は「本因」の立場である。青年の「熱」と「力」が燃えたぎる魂の溶鉱炉から、壮大なる未来が創り出されていくのだ。
 大詩人ゲーテは、たゆみなき努力と拡大の象徴である丈夫ファウストに、こう語らせた。
 「休みなく活動するものこそは男だ」(『ファウスト 第一部』相良守峯訳、岩波文庫)
 一日一日が、活動である。時々刻々と、戦いだ。そこに、向上がある。そこに、前進がある。そこに、開拓がある。闘争に次ぐ闘争! 拡大に次ぐ拡大! そして勝利に次ぐ勝利!
 常勝の師弟の旗よ、いざ大空高く翻れ! これが、わが男子部の尊き大使命だ。
 わが男子部は、創価学会の「中核のなかの中核」である。
 男子部・二百七十三万人の勢いが、そして男女青年部・四百四十万人の勢いが、広宣流布の勢いだ。青年部の強さが、学会の強さなのである。まさに、その力が日本第一になったとは、無数の識者の声であり、賞讃である。
 ともあれ、「仏法は勝負」である。いかなる波浪があり、いかなる迫害の険難の山々があっても、最後は必ず勝つことが、仏法なのだ。信仰なのだ。広宣流布なのだ。
 その責任をもって戦う青年は、十方世界の仏菩薩から讃歎され、厳護され、「広宣流布の丈夫」として、永遠なる金剛不壊の生命を記別されるのである。

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