Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「女性の世紀」の若き旭日(上)  

2004.11.11 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

前後
3  名門の裕福な家に生まれたから、幸福なのか。大邸宅で、お雛様のように綺麗に着飾りながら、空虚な日々を浪費する人もいる。金銭の魔性ゆえに、堕落したり、事件に巻き込まれる悲劇も、あとを絶たない。美貌に恵まれれば幸福か。答えは、明確に否である。
 学歴によって、また結婚によっても、幸・不幸は決まらない。結婚の年齢が早いから幸福、遅いから不幸ということは絶対にない。そしてまた、結婚しなかったら不幸ということも、断じてありえない。
 紀元前一世紀、エジプトの絶世の美女クレオパトラは、比類なき権力も財宝も手に入れた。しかし、最後は、自らの命を絶たざるを得なかったことは、あまりにも有名な史実である。
 そしてまた、八世紀、中国の楊貴妃も、美しい容姿と才知に恵まれ、時の皇帝の寵愛を一身に受け、中国一の幸福者に映っていた。だが、その末路は人びとの怒号に包まれ、一族もろとも誅殺されてしまっている。
 私は、こうした事実を決して忘れてはならないと強く申し上げておきたい。ともかく、人間には、絶え間ない変化変化があるのだ。若い今、満足と言いながら、あとになって、不満ばかり喚く人もいる。喜びの日々であった人が、いつのまにか、人が変わったように怒り狂い、苦悩の闇を徘徊している。
 「幸福の園」は「不幸の洞窟」と隣り合わせである――とは、著名なベルギーの劇作家メーテルリンクの傑作『青い鳥』の鋭い幸福観である。
 「天人は五衰(五つの衰え)を受く」と、仏法では説かれる。天界の喜びは儚く消え去る。
 見栄は幸福ではない。有名もまた幸福には繋がらない。大スターと呼ばれた人びとの侘びしい人生の結末も、数多く歴史に残っている通りだ。それは、一体、なぜか。
 私の友人であるアメリカ実践哲学協会のマリノフ会長は、「虚名ばかりが大きくなるとき、生命の躍動的な力が消費されて弱まり、人間としての存在そのものが危なっかしく空虚になるのだろう」(『元気哲学』吉田利子訳、アーティストハウスパブリッシャーズ)と述べておられた。
 いつもマスコミやテレビに賑やかに書かれ、華々しく映し出されても、「夢の中の栄え」であり、「幻の楽しみ」に過ぎないのだ。
 ある哲学者が言った。
 「人生は、最終章の数年の実像がどうであったかで、見極めることができる。最後の数年が、生きざまの総決算である。その人生の総決算の実体を見なくてはいけない」
 私の恩師・戸田先生も、かつて同じことを論じておられた。
 若き哲学者の貴女たちよ、虚像の幸福に幻惑されるな!
 「常楽我浄」の生命の大道を、焦らずに、また自分らしく、一歩また一歩、進みゆくのだ。
 そして誇りも高く、断固と最後に勝ちゆくのだ!

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