Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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正義の言論は銃剣よりも強し  

2004.10.16 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)

前後
5  徹底的に「偽善」を嫌ったユゴーだが、その最たる例は聖職者であった。自らの死後についての遺言も、痛烈だ。
 「私の葬式には、どんな司祭にも立ち会ってもらいたくない」(辻昶『ヴィクトル・ユゴーの生涯』潮出版社)
 尊き貧しい庶民の味方であった彼は、大切な、大好きな民衆と共に、この世を去りたかったのである。
 「私の遺体は、貧者の柩車で、墓地に運んでもらいたい」「私は教会での祈りをいっさい拒絶する」(同前)
 『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンは、臨終を前に、″墓石に名を刻むなかれ″と遺言し、無名の貧しい一人の人間として死んでいった。ユゴー自身の臨終の覚悟と重なり合う場面である。
 ユゴー文学に造詣の深いフランス文学者から、私は伝言を頂戴したことがある。――いかなる教団も、社会的要素を無視した場合、その宗教は独善になる。ユゴーが権威主義の聖職者を責めた理曲も、ここにあると。
 鋭い、また正しき洞察であった。社会に背を向け、自ら布教もせず、信徒を食い物にしてきた教団が、世間の笑い物になり、凋落の一途をたどってきたことは、皆様もご承知の通りだ。
 罪人だったジャン・バルジャンを改心させたミリエル師は、粗末な僧衣をまとい、生活費も切りつめて人びとに奉仕する、高徳の人であった。これこそ、ユゴーの理想とした聖職者であった。その正反対に、贅を凝らした衣で飾り立て、信徒の供養で豪遊する坊主など、ユゴーの精神に照らせば、最も唾棄すべき、最も軽蔑すべき存在だったのだ。
 民衆を軽んじ、民衆を利用し、そして民衆を欺く偽善と戦い抜け! 民衆を見下す、傲慢な奴らを責め抜け! そして断じて倒せ! 断じて倒すのだ!
 これが、広宣流布の急所である。戸田先生が教えてくださった学会の魂の結論である。
 そこに、迫害が襲いかかるのは必定であろう。古今東西を問わず、偉人を妬みゆく黒い心、卑劣にして憎しみの悪口は枚挙にいとまがない。正義の人が中傷され、憎まれ、叩かれ、死刑にまでされゆく、恐ろしき嫉妬の人間と残酷な権力の歴史は、消えることがなかった。
 祖国を追われた亡命先のブリユッセルで、ユゴーは叫んだ。
 「(=わたしは)逆境を好ましく思う。自由のため、祖国のため、正義のために、自分がなめる辛酸という辛酸を好ましく思う。わたしの良心は喜々としている」(前掲書『私の見聞録』)
 ユゴーは勝った。ユゴーは人間として最高の勝利者となった。
 ″自由と正義を守る戦いのなかでこそ、人間の魂は誇り高く輝くのである!″ と叫んだユゴーよ!
 人生は、どこまでも闘争である。
 恩師は、静かに厳しく言われた。
 「大作、君はユゴーたれ!」

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