Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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周恩来 中国総理 二十世紀の諸葛孔明

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
6  感動の「最期の言葉」
 周総理の訃報が世界を駆けたのは、それから二カ月後のことである。冷たく横たわる総理の胸には、バッジが付けられたままだった。「人民に奉仕する」と刻んであった。
 手術台の上からでさえ、あえぎあえぎ、一地方の炭鉱労働者の健康について指示を出す総理であった。
 大人に己なし。胸には、いつも人民のことしかなかった。
 総理の最期の言葉は、医師団への「私のところでは、もう何もすることがない。ここで何をしているのか。ほかの人たちの面倒を見てあげなさい。あの人たちのほうが、私よりもっと君たちを必要としているのだ……」であった。
 逝去の報に、大の男までが声をあげて泣いた。総理は人々の父であり、母であった。ほかのだれが、われわれのことを、これほどまでに思ってくれようか。
 民の慟哭は中国の山河をも震わせた。寒風が、むせび泣きつつ天地を駆けた。総理を偲ぶ声は、四人組が抑えても抑えても、全土から沸き上がった。
 四月の清明節。日本の彼岸にあたる。天安門広場には、大勢の人々が集まり、総理への追悼の花輪を捧げた。それも四人組の指示で撤去されてしまった。しかし取り払われても、取り払われても、なお新しい花輪をつくり、人々は広場に集まった。
 「敬愛する周総理、あなたへの花輪は私たちの心の中にあります。だれも持ち去ることはできません」
 四人組が総理を攻撃すればするほど、人民の怒りはふくれあがっていった。われらの総理を誹謗することだけは許せない――悪人を打倒せよという声は奔流のごとく、もはや抑えることは不可能だった。
 死せる総理が、生ける四人組を駆逐し始めていったのである。
 人民への愛。それが総理のすべてだった。ただ、そのためだけに、心身を磨り減らし、命を削り続けた生涯であった。
 一九六二年、日本の部落解放同盟の代表が中国を訪れたときのことである。団長は、総理が多忙な時間を割いてくれたことに、心から感謝した。すると総理は、こう言われたという。
 「何をいいますか。日本の中でいちばん虐げられ、いちばん苦しんでいる人たちが中国に来てるのに、その人たちと会わない総理だったら、中国の総理ではありませんよ」(上杉佐一郎対談集『人権は世界を動かす』解放出版社)
 総理にとって「人民」とは、中国だけの「人民」ではなかったのだ。
 日本の賠償問題でもそうであった。日本の侵略による中国の死傷者数は三千五百万人、経済的損失は直接・間接を合わせ、六千億ドルともされている。
 仮に、その一部でも日本から賠償が得られれば、荒廃した祖国の復興にどれほど役立つことか。終戦直後の中国では「日本の重工業の再建を許さないよう生産設備を撤去し、その七割を中国に運んで中国の産業をおこしたい」という意見も強かった。
 しかし総理は言われた。「わが国は賠償を求めない。日本の人民も、わが国の人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である。賠償を請求すれば、同じ被害者である日本人民を苦しめることになる」
 事実、日本は、かりに五百億ドルの賠償を払うだけでも、五十年はかかっただろうと言われている。もちろん、今日の経済発展はなかったであろう。この深き恩義を、日本人は絶対に忘れてはならない。いわんや、経済力に傲って、恩人の国を尊敬できないなどというのは、言語道断であろう。
7  桜が結ぶ永遠の友誼
 総理の逝去の二年後、北京で鄧穎超女史にお会いした。それは、総理の“分身”との語らいであった。
 女史は、にっこりとして言われた。「私は来年、『桜が満開のころに』日本へ行きたいと思います」。総理の“願望”を果たしに行きますよという意味であった。
 約束どおり、女史は来日された。国賓扱いである。総理が京都の桜に別れを告げてから、ちょうど六十年目の春であった。(一九七九年四月)
 あいにく、その年の桜の開花は早く、東京の桜は、春嵐にほとんど散ってしまっていた。そこで、せめてもの思いをこめて、私は八重桜と、創価大学の「周桜」「周夫婦桜」、そして留学生の元気な姿を収めたアルバムを、迎賓館で女史にお見せした。
 「これは私たちの友情を象徴するものです」と、喜色を満面に浮かべて喜んでくださった。
 「周夫婦桜」は、一対の桜である。じつは、ご夫妻の住まいの庭に、かつて二本の桜があったが、一本が枯れてしまった。「二本の桜のもとで、一緒に写真を撮り残さなかったことが心残りです」と、女史からうかがっていたのである。私は、心に心で応えたかった。
 以来、女史とはいくどとなく、お会いした。最後は、北京のご自宅にうかがった折である。(九〇年五月)
 部屋には、私がお贈りしたご夫妻の絵が飾られていた。
 「私は、この部屋で、外国の友人を迎えるたびに、この絵を見せて、周総理の思い出や、総理と池田先生との友情のことを紹介しています。私の一生のなかでも、こんなすばらしい贈り物はありません。総理も、さぞかし喜んでいることでしょう」
 このときも「周桜」「周夫婦桜」のアルバムをお見せすると「ずいぶん、大きくなりましたね……」と感慨深げであった。
 別れ際、思いがけなく、総理愛用の「象牙のペーパーナイフ」と、女史愛用の「玉製の筆立て」を贈ってくださった。
 このような貴重な品をいただくわけにはいきませんと申し上げると、女史は言われた。
 「私は、生前の総理の池田先生への心情をよく知っておりますので、お贈りすることにしました。これをご覧になって、総理を偲んでください。先生と総理の友情の形見として……」
 女史は、これが最後になることを知っておられたのであろう。
8  総理ご夫妻の勝利
 中国の古言にいわく「人と交わるには 心で交われ 樹に注ぐには 根に注げ」
 心を大事にし、人の心をとらえる――総理は真の政治を知っている方であった。
 あの声、あの眼差し、あの気迫。風雪に、なおも進まんとする“東洋の丈夫”の姿を、私は今も、ありありと思い出す。
 逝去のあのとき、周総理は、敵の包囲網の中で亡くなった。しかし、最後に勝ったのは総理であった。
 改革・開放へ、心血を注いで国内の状況を整え、米中・日中をはじめとする国際環境をも切り開いて――逝かれた。
 そして今、中国は、百年にわたる屈辱と苦難の歴史をはね返して、栄光の二十一世紀へと巨歩を運び始めた。総理が命と引き換えに敷いたレールの上を。
 総理は勝った。艱難辛苦の赤誠が勝った。
 西の大空を仰げば、総理ご夫妻の晴れやかな笑顔が浮かぶ。
 創価大学の「周桜」の碑は、中国のほうに向けて建ててある。

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