Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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佐藤栄作総理 日本の将来を語りあったノーベル平和賞受賞者

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
7  「日中国交への尽力に感謝します」
 中国で周恩来総理、鄧小平副総理に会った話をし、中国を大切にしたいと言うと、佐藤元総理は「そのとおりです。日中国交回復、よくやっていただきました」。大きな声だった。「中国との国交に尽力してくださり、感謝します」とも言われた。
 この点、意外に思う方もおられるかもしれない。世間では佐藤政権は台湾一辺倒と見られていたからである。米中接近のニクソン・ショック以来、日本の朝野は手のひらを返したように、中国へ中国へと靡いたが、佐藤総理は台湾支持を変えなかった。
 蒋介石総統が戦後、日本人の帰国を速やかに認め、賠償金も取らなかった事実に深く恩義を感じておられたのである。「怨みに報いるに徳をもってせよ」とした総統に対し「恩に報いるに恩でこたえねばならない」と。
 その一方で、日中国交正常化は早くから総理の念願であった。
 就任以前、中国との国交を自分の政権のテーマにしようとされたこともあったのである。「日本が米中の仲立ちをしたい」とも考えておられた。しかし沖縄返還を至上課題とする以上、アメリカとの関係を最優先せざるを得なかったのであろう。
 ともかく、その胸中は「私が台湾に信義を尽くしておいたから、次の人はやりやすいでしょう」という言葉に尽くされている。
 後継者が自由に新しい選択ができるような道をつくるという心情であった。佐藤内閣にとって打撃になり、何と批判されても、「信義を尽くしたという歴史を残しておく」と人知れず決心しておられた。
 それに関連して、米中国交の立役者であるキッシンジャー氏が、私に「外交上の秘密のため、結果的に日本の『頭越し』ということになってしまった。今思えば、もう少し、手際よくできたと思う。あの傑出した佐藤総理に対し非礼をわびたい」と言っておられたことも記しておきたい。
 元総理とは、この夕べも、日本の未来について意見を交換したが、お祝いの席でもあり、終始、なごやかな雰囲気だった。
 佐藤さんは公式の場では口数も少なく、堂々たる体格もあいまって威圧的に見えることがあった。しかし実際にお会いすると、応対は柔らかで、情の濃やかな方だった。一切弁解しない人格者だったので、なおさら誤解も多かったのではないだろうか。
 「保守反動」というようなレッテルや、つくられた虚像が、ひとり歩きした面も大きかったと思う。
 しかし、私が知る限り、佐藤さんは「戦争は絶対にいけない」という強い思いを腹中に置いておられた。
 愛国者であったが、他国への尊敬の念も強く、「傲慢な国家主義や島国根性は絶対に間違いだ」と信じておられた。
 佐藤さんには、人を尊敬する心の広さがあった。しかるべき人であれば、政敵にも敬意を払った。
 小さなことにこだわらず、肝心かなめの大どころをつかんでいる方であった。
 光亭での食事を終えて、ご夫妻を車まで見送った。
 後で、奥さまから「無口な主人が本当によく、しゃべりました。『池田会長がひと回りもふた回りも大きくなって、日本のために頑張ってくださっているのがうれしい』と言っていました」という、温かな愛情こもるお手紙を、いただいた。
8  「私生活は質素に」
 その三カ月後であった。佐藤元総理が倒れた。六月三日、逝去。
 うかがったところによると、佐藤家の蓄えは、周囲が驚くほど少なかったという。「これが八年も総理をやった人の財産か」と。それでも佐藤家では、故人の信条を尊重し、香典も一切受けなかった。
 佐藤さんは、疑獄事件の後、ことさらに厳しく身を律しておられた。総理になったときも、一切祝儀は受けず、かえって「祝いを返すとは何ごとか」と怒りを招いたことがあったのは有名な話である。
 政治家は私生活を質素にすべきだという厳しい考えをもたれていたようだ。
 田舎から出てきたお手伝いさんが、総理邸のあんまり質素な生活に失望し、華やかな暮らしへの夢が壊れて、一週間で帰ってしまったこともあるという。
 日本には珍しい大型の指導者であった。「平凡にして非凡なる人」「日本の憲政史上の巨星」という人も多い。
 強運の人と呼ばれたが、それだけの「徳」のある方であった。よく不遇の人に陰で手を差し伸べておられたようである。
 死後、そういう人々から、思いがけなく「お世話になったんです」と聞かされて、奥さまも驚き、感激することが、しばしばだったという。
 信義の人であった。自分が少しでも世話になった人には、とことん恩返しをした。その分、人を裏切るような人間は許さなかったとうかがっている。
 昭和五十六年暮れ、私の妻は女性週刊誌の企画で寛子夫人と対談した。気取らない、明るく、さっぱりした気性の方だった。その夫人も昭和六十二年に亡くなられた。
 八王子に東京牧口記念会館ができたとき、私は佐藤ご夫妻の「夫婦桜」を、記念庭園に、妻と二人で、そっと植樹させていただいた。
9   今日は明日の前日
 佐藤さんのモットーは「今日は明日の前日」であった。これを著書の題名にもしておられる。
 今日という日を「昨日の翌日」ととらえるよりも、むしろ「明日の前日」ととらえて、未来を積極的につくっていこう、という意味だったと思う。
 事実、総理は、一国の指導者として、「国民の未来」への責任を、ずっしりと一身に受けとめておられた。
 最高責任者の孤独に、じっと耐えておられた。
 ときに、あまりにも理不尽な攻撃もあったが、歴史の審判を信じ、毀誉褒貶を達観しておられた。
 目先のことではなく、自分の死後のことを考えて仕事をしておられた。
 お会いするたびに「日本の将来が」「日本の将来が」と繰り返しておられた佐藤先生の太い声が、今でも懐かしく思い出される。

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