Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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常書鴻画伯 シルクロードの宝石・敦煌の守り人

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
1  そのとき、常書鴻先生は、天女たちの声を聞いたという。
 敦煌(トンホワン)の飛天たちが壁画から飛び出して、衣を翻し、光を発しながら、こう励ましてくれた。
 「あなたの夫人は、あなたを見放し、去りました。でも、あなたは決して、私たち敦煌を見放してはいけません」
 真夜中だった。深い藍色の夜空に、螺鈿を鏤めたような星々が凍てついていた。千仏洞も眠っていた。九層楼の庇に下がる風鐸の音だけが、風に乗って届いた。
 昼も夜も、耳にしてきた渋い音色だ。ラクダの鈴の音に似た、単調なその音。泣くがごとく、訴えるがごとく、胸にしみわたる。
 一九四五年。日中戦争は、まだ続いていた。常画伯は四十を超えたばかり。人煙を遙かに隔つ絶境の地――砂漠の中の敦煌に来て二年がたっていた。
 「苦しいことばかりでした。最初は水もありません。食料もありません。そんなところに何をしに行くのだ、死んでしまうと皆に反対されました。無期懲役とも言われました。しかし私は決して自分のために行ったのではありません。祖国と人類の文化のためです。どうしても、あのすばらしい芸術を守りたかった……」
 パリで洋画を学び、数々の賞に輝いて将来を嘱望されていた若き画伯の運命を、一書との出あいが変えた。セーヌ河畔の古書の露店で見た、ペリオ編の画集『敦煌石窟』。四世紀から一千年にわたる中国美術史の精華が、いきなり目の前に展開した。
 「すごい。奇跡だ。これまで陶酔していた西洋ルネサンスの芸術以上ではないか」。しかも、祖国は蹂躙され、その至宝は、ペリオをはじめ外国人に略奪されるままになっているのだ。
 「帰ろう。中国へ。宝を守るんだ。この腕で。私は中国人だ。宝を守る責任があるはずだ」
2  辺境の砂漠 妻にも去られた
 帰国して七年の苦闘の末、やっと敦煌への道は開いた。
 画伯は芸術界での栄達の道を、なげうった。そして一カ月以上もの風塵の旅路の果てに、数人の同志とともに、ついに「砂漠の大画廊」に着いたのだ。
 しかし、いたる所、壁は崩れ落ち、楼閣はあばら屋同然。盗まれるだけ盗まれた石窟は、土砂に埋もれ、荒廃の極みにあった。
 いったい、何から手を付ければ、いいのか――。
 北京から直線距離で二千キロ。砂漠の海の孤島は、記録された最高気温が四四・一度。最低気温が零下二二・六度。一年中、“黒風”と呼ばれる砂嵐が吹き荒れる。
 夫人は、敦煌へ来るのを拒んだ。説得し、かなり遅れて、二人の子どもとともに来てくれた。しかし、それもつかの間、ある日、仕事を終えて帰ると、夫人は忽然と消えていた。十三歳の娘と三歳の息子を残して。
 ちょうど当時の国民党政府が、発足したばかりの敦煌芸術研究所を解散すると発表したころだった。それまでにも経費をまったく送ってこず、常画伯らは、悪戦苦闘のなか、砂漠に置き去りにされた格好であった。
 打ち重なる心労で夜も眠れなかった。ある夕、帰ると二人の子どもがいなかった。捜し回った。やせ衰えた画伯の影が、ゴビの砂上に長く落ちた。
 やっと見つけた。娘が首に飛びついてきた。「お母ちゃんは、どこ?」。ふろしき包みに四つの餅子(トウモロコシの粉をこね、ふかしたもの)と飴が入っていた。
 息子も、だだをこねた。「媽媽はどこなの? ぼくは媽媽がほしいよぉ!」。画伯は二人を抱きしめ、あたりかまわず一緒に泣いた。
 常画伯は耐えた。
 莫高窟の中に、有名な北魏時代(四世紀―六世紀)の壁画があった。
 「捨身飼虎(身を捨てて虎を飼う)」。釈尊の前生の菩薩が、飢えた虎の母子を救うために、母虎にわが身を食べさせた物語だ。
 「菩薩は、命まで捧げて虎を助けた。なぜ私は、この偉大な芸術の宝庫のために、わが身を捨てられないのか。動乱の今だからこそ、だれかがやらねばならないのだ」
 常先生は自分を鼓舞した。
 「書鴻よ、お前は何のために帰国したのだ。何のために、この辺ぴな砂漠に来たのだ。しっかりせよ。同じ志をもてなければ、夫婦でなくてもいいじゃないか。人生は戦いの連続だ。ここで転んでも、また立ち上がって、命ある限り、前進すればいいのだ。いけない。去っては、いけない」
 月明かりが窓いっぱいに差していた。決心した安らかな眠りのなかで、夢だろうか、何百もの飛天が石窟から舞い出て、夜空に広がっていった。
3  「必死の一人」が歴史を変えた
 燦然たる栄光の陰には、必ず一人の「必死の人」がいる。
 あの人類の奇跡・敦煌も、無名の画工たちが、劣悪な環境のなか、名利もいらぬ、喝采もいらぬと耐え抜いて生み出したのだ。
 今、敦煌はその名のごとく世界に「大きく輝き」、ユネスコの世界遺産にも指定されている。観光の名所ともなり、宝物の展覧会には長い列が並ぶ。その隆盛の礎に、常先生ご一家はじめ、人々の筆舌に尽くせぬ苦労があったのだ。
 先の夫人に去られた後、研究員として敦煌を訪れた李承仙画伯と、常先生は結ばれた。
 李夫人の父君は革命家で、中国革命の父・孫文が創立した「同盟会」の幹部であった。
 初めて会ったとき、常画伯が「敦煌の地は、とても離れた地にある。古代では、兵隊か、流罪人しか行かない所で、生活はとても苦しい。あなたは耐えられますか」と聞くと、乙女は答えた。
 「私は芸術のために身を捧げる覚悟です。苦しいから行かないというのでは、道理に合いません」
 その言葉どおり、半世紀近くを、夫妻はともに生き抜いたのである。
 北京の釣魚台(国賓館)で、常ご夫妻と再会した(九〇年六月)。初めてお会いしてから十年がたっていた。子息の常嘉煌画伯もご一緒であった。
 この十年、「中国敦煌展」(八五年、東京富士美術館)、対談集『敦煌の光彩』(徳間書店。本全集第17巻収録)をはじめ、先生との友誼は幾重にも重なっていた。
 「私の雅号は『大漠痴人』といいます。“敦煌ばか”という意味です。あらゆる艱難辛苦がありました。歯を食いしばって生きてきました。ここにいる妻が一緒に生きてくれました」
 文化大革命のときは、研究所は人民に「毒物を普及」するものだと迫害され、先生はその元凶とされた。政府からもらった賞状には大きな×印がつけられた。いつも励ましてくれた周恩来総理の文案による宝の賞状であった。ご一家は追放され、豚小屋に住まわされたという。権力の狂気であった。
 先生の言葉が胸を突きさした。
 「私は池田先生にお会いするたびに、魂が揺さぶられるような感無量の思いがこみあげてくるのです。それは先生が、世界の平和のため、文化と芸術のため、中日の友好のために、あらゆる批判も障害も超えて戦われる姿に、私の一生が二重写しのように振り返られるからです。
 理想へ向かって進むには、人には見えない困難があります。だれも知らないところで辛苦また辛苦を重ねなければならない。私の経験から見ても、池田先生の大きなお仕事に、どれほどのご苦労があったことか。それを思うと万感胸に迫ってくるのです」
 私は申し上げた。「先生のお言葉を、偉大な精神につつまれたような気持ちで受けとめました。言葉以上の生命の誠実なる鼓動を一生涯、忘れることはないでしょう」
 真の「知己」は得難い。今は亡き常先生との友情の形見として、あえて、このお言葉を残しておきたい。
4  もう一度、生まれたならば
 半世紀は余りに早く過ぎたと、画伯は言われた。理想は遠く、仕事は、まだまだこれからだと。
 「もう一度、生まれたとしたら、どんな職業を選びますか」。私の問いへの答えが、常先生の人生の勝利を象徴していた。
 「もし本当に人間に生まれることができるならば、私はやはり『常書鴻』を選んで、未完成の仕事を続けていきたいと思います」
 ああ信念の五十年。一万八千の昼と夜。
 先生といつもともにあった風鐸の音が、遙か万里を越えて、私の耳にも聴こえる気がした。

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