Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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革命に殉じ生涯戦う カストロ キューバ国家評議会議長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
2  カストロ青年が、バチスタ腐敗政権を倒して、「モラル(倫理)の革命」の勝利を告げたのが三十二歳。(一九五九年一月)
 「公職がほしくて革命をしたわけではない」と、首相も大統領も他の人にまかせたが、うまくいかず、首相にならざるを得なかった。
 三十七年間、革命の船長として嵐につぐ嵐の海に、舵を取り続けてきた。
 今、その胸に去来するものは何だろうか。
 強気の人である。
 北の巨人──世界一の強国アメリカを向こうに回して、一歩も引かない。アメリカによる軍事侵略もあった。経済封鎖も続いた。悪宣伝もひどかった。″カストロ暗殺計画″は数えきれない。
 叩かれ、叩かれ、しかし絶対に負けず、頭を下げなかった。
 議長の性格の一番きわだった特徴は、「断じて屈服しない」という点だとされる。
 「彼(=少年時代のカストロ)は、彼よりも年上で体も大きい一人の若者と喧嘩したが、その時もはや動けなくなる迄殴られた。翌日彼は、その敵に向っていった。そして再び仲裁される迄殴られた。
 三度目の時も結果はそう変ら、なかった。しかし相手の少年は、もうやる気が無かった」(ハーバート・マシューズ『フィデル・カストロ』加茂雄三訳、紀伊国屋書店)
3  精神性の継承が重要
 「私は楽観主義の人間です」。議長はつねづね、そう語る。
 キューバの山中でゲリラ戦を始めたとき、同志は、わずか十二人しかいなかった。そんな勢力で、アメリカの支援を受けた独裁政権を二年後に倒せるなどと、他のだれもが信じなかった。
 その後も、いかなる絶望的な闇も、この革命家から希望の炎を奪い去ることはできなかった。
 議長あってのキューバであり、キューバ革命であった。
 しかし──議長なきあとは、どうなるのか。
 率直が、私の信条である。
 「カストロ議長、後継者は、どうなっておりますか」
 私は、アメリカの要人の中にも、議長の理想への戦いに敬意を表している人もいる事実を伝えるとともに、理想の松明を受け継ぐ人を育ててほしいと話した。
 もちろん、議長が、この問題を考えていないはずがない。
 それでも──否、だからこそ、人間としての友情から、私は語っておきたかかった。
 何より、二十一世紀にも生き続けていくキューバの国民のために。
 「東洋の格言に『創業は易く、守成は難し』とあります。新しく創り上げることは、むずかしいようでも、まだ、やさしい。でき上がった事業を受け継いで守り、完成させていくほうが、ずっとむずかしいという意味です。
 大事なのは第二代であり、なかんずく第三代です。三代まで固めれば、恒久性ができます。後は、ずっと続いていきます」
 私は、日本の徳川幕府や企業の例も引いた。
 「三代までで決まる──それではソ連は、どうなりますか?」
 カストロ議長は、ソ連の崩壊を指摘した。もっともである。
 この政変によって、キューバの経済は壊滅的打撃を受けた。ソ連型社会主義とは違う独自路線を進んでいたものの、経済の結びつきは圧倒的であった。
 それが突然、なくなってしまった。
 「革命以来の危機」の痛手から、私が訪れたときも、まだ立ち直ってはいなかった。ここぞとばかりに、新たなキューバ叩きも始まっていた。私は答えた。
 「ソ連の歴代の指導者は、政治性の判断によって選ばれたのではないでしょうか。人物で選ぶよりも、政治的観点が優先していたと私は思います。そこには師弟がありません。精神性の継承がありません」
 だから硬直してしまった。時代とともに変化し、発展できなかった。
 民衆のため、弱者のためという原点の精神が脈々と受け継がれていかなければ、いかなる革命も保身となり、やがて反動となる。
 原点の精神が不滅なら、いくらでも柔軟に知恵がわくはずである。
4  目的は民衆の幸福
 「目的は、民衆の幸福であり、食・衣・住という生活の向上です。その意味では、社会主義も手段です。滑走路のようなものではないでしょうか。
 飛行機が飛び立ったあとは、思いもよらぬ現実があります。乱気流もある。それらに対処しながら、目的地まで、たどり着かなければなりません。知恵です。技術です。理想と現実を埋める技術こそ政治ではないでしょうか」
 僭越なのは、百も承知である。
 あるいは議長を不快にさせるかもしれなかった。それなら、それでも、よかった。正しいと信ずることを相手に言わない友情は、にせものだからである。
 私は議長を信じていた。民衆への議長の愛情を信じていた。
 議長の生涯は、民衆のためには不眠不休。若いころには一日二十時間も働いた。国のどこへでも疾風のごとく駆けつけ、人々と語りあった。
 数世紀にわたる苛烈なスペイン支配に続く、アメリカの支配。革命政権は、キューバの人々がもった初めての「われわれの政府」であった。
 その象徴が、議長であった。
 ある老婆は言った。「フィデル(=カストロ議長のことを人々は、こう呼ぶ)は、私のようなつまらぬ老婆でも彼に話しかければきっと真面目に答えてくれます。キューバではこうした政治家はこれまで一度も現われたことがなかったのです」(白井健三郎編『十四人の革命家像』、綜合評論社)
 議長の高潔さは、″敵″さえもが認める。
 国民と同じものを食べ、同じものを分かちあった。
 ハリケーンが来れば、議長は激しい風雨の中へ飛び出して、危険をともにし、励まし、指示をあたえた。もう少しで自分が溺れそうになったこともある。
 そして″政治的なハリケーン″に見舞われていなかったときは、一度もなかったのである。
5  「わが国民をたたえてほしい」
 ″半植民地はいやだわれわれは奴隷ではない!″。独立国家(一九〇二年独立)として、誇り高い青年革命家たちであった。
 しかし、食料も土地も施設もエネルギーも、軍隊まで、アメリカによって支配されていた国にとって、この誇りを貫くことは、必然的に、この超大国との対決に向かう道だったのである。感情のもつれもあった。
 議長は言う。
 「われわれが三十五年もの間、世界でもっとも強力な力、政治・経済・軍事の面で、歴史上もっとも強大な国の圧力、攻撃そして脅威に抵抗してきた事実を否定することは、だれもできません。‥‥社会主義の崩壊にも耐え、ソ連の消滅にも耐えてきました。
 私は、私自身が称賛に値するとは思いません。しかし、キューバ国民は──キューバ国民こそが称賛されるべきです。私は、私のことを人がどう思おうが、かまいません。‥‥私の国民が、どのように判断されるかです。私の国民こそが、歴史的な高い栄誉にふさわしいと私は信じたい」(九五年、米CNNテレビのインタビューに答えて)
 私も、わが同志について、同じ気持ちである。
 だから議長が「創価学会の皆さんは、平和のための活動に全魂をかたむけておられますね。だから尊敬します」と言われたことは、長年苦労してきた同志のために、うれしかた。
 第二次世界大戦中、自由のために戦い、初代・二代会長が投獄されたことも、よく知っておられた。
 私は申し上げた。
 「日本では、私たちは攻撃されています。日本は傲慢になり、ふたたび国家主義、権力主義にかたむいていると、多くの人が憂えています。調査でも、半数以上の人が、日本の将来は暗いと見ています。
 一方、キューバの人々は、長い間、困難と戦い、耐え抜いてこられた。耐え抜いた人が勝ちます。キューバの明るい未来を私は信じます」
 それは、初めてキューバを訪問した私の実感でもあった。
 たしかに、経済事情は厳しかった。しかし人々の表情は、意外なほど明るかった。「苦しみを分かちあおう」という息吹を感じた。
 一部に拝金主義も生まれる一方で、革命の人道主義を貫こうという精神性はきわめて高い。
 たとえば、人々は耐乏生活の中でも、チェルノブイリ事故で被害にあった子どもたち二万人を引き取って、治療してきたのである。
 医療と教育──これは大いなる革命の成果である。キューバの乳児死亡率はアメリカのワシントン州よりも低く、医師は二百人に一人いる。識字率は、ほぼ一〇〇パーセント。スポーツ、芸術のレベルの高さは世界有数である。
6  革命家は人間を信じている
 カストロ議長が言われた。少し、しわがれた、力強く、それでいて静かに語りかけるような声であった。
 「日本は世界で唯一の被爆国です。すでに戦争が終結しつつあるときに、しかも一般市民に対して核兵器が使用された。あまりにも反人道的です。今も世界では核兵器がつくられています。大きな経済的負担を強いながら──冷戦は終わったのです。何のための核なのか、人間の英知は何のためにあるのかと私は問いたい」
 議長は、諸大国が年間一兆ドルともいわれる軍事費の一割を使えば、途上国の深刻な債務問題に立ち向かえると主張している。「武器を増やすより、民衆の生活を守るべきだ」と。
 民衆のために──その一点で、すべての指導者が心をあわせ、胸襟を開いて話しあったならば、世界は一変するであろう。
 夢物語ではない。アメリカとベトナムも国交が正常化したではないか。人間の英知を私は信じたい。
 議長の信条は、こうである。
 「反動主義者は人間を信用しない」「彼は(人間を)むち打っことによってのみ動かせると思っている」「革命家は人間を信じている。人類を信じている。もし誰か人間を信じない者がいたら、彼は革命家ではない」「私がもっとも革命に感謝し、革命のために喜んで死ぬことができるのは、私が革命によって自分が人間であることを感じとれたからに他ならない」(前掲『フィデル・カストロ』)
 世上、カストロ議長ほど悪口雑言されてきた人も少ない。その一方、カリブの風雲児として、世界の途上国に希望と刺激をあたえ続けてきたことも事実である。
 両極端の評価のなかで、議長の実像は何なのか。短い会見で決めつけるつもりはない。最終的には、歴史が審判することでもあろう。また、いくたの過ちがあったことは議長自身も認めている。
7  ただ、ここには「わが理想のためなら命も惜しくない」と定めた一人の人物がいた。
 そして革命に殉じた同志の思いを夢寐にも忘れぬ人がいた。
 独裁政権に逮捕され、拷問された同志たちは、民衆の勝利を彼に託して、死んでいった。(五三年七月のモンカダ兵営襲撃のあと)
 アメリカ軍の侵攻で傷ついた青年は、流れ出る自分の血で議長の名前を板に書き、死んでいった。(六一年四月)
 彼らの心を、どうして忘れられょうか。
 初一念を貫く、悪戦苦闘の革命家。私は、わが青春のモットーを想起した。
 「笑う者には、汝の笑うにまかせよう。謗る者には、汝の謗るにまかせよう」と。
 私は仏法者である。仏法者に、反米もなければ、反キューバもない。相手がだれであれ、「平和」の追求という基本の精神が一致するならば、人間として対話の可能性を探し、連帯への新しき道を開いていくことが正しいと信じている。
 一時間半の会見では、コスイギン首相(ソ連)、周恩来総理(中国)、ポーリング博士(米)はじめ、共通の知人についても語りあった。また、ともに愛読するホイットマン、ユゴーついても。
 そして、そのほか数々の私の苦言をも、議長は寛大に受けとめてくださり、一言われたのである。「友情に感謝します!」と。
 コロンブスが感嘆した「人間の目が、かつて見たことのないほど美しい島」キューバ。
 あわただしい滞在を終えて、数週間後に日本に帰ると、キューバへのアメリカの経済制裁強化法(ヘルムズ・バートン法)が、国際世論の怒りの前に凍結されたというニュースが飛び込んできた。
 (一九九七年八月十七日 「聖教新聞」掲載)

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