Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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反ユダヤ主義と戦うサイモン・ウィーゼン… ハイヤー会長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
3  希望はある! 黙らないかぎり
 平和のために「悲劇を忘れるな」と繰り返すのは、罪であろうか。
 アウシュビッツや南京を否定することは、虐殺された人々を、「もう一度、殺す」ことではないだろうか。
 歴史の真実を教えず、青年の目を閉ざそうとすることは、恥やすべき歴史をもっていることよりも、さらに恥ずかしいことではないだろうか。
 日本がアジアの各地で行った非道さは、ナチスと変わりがない。
 ごまかそうとしても、世界が知っている。嘘を重ねるほど、軽蔑され、孤立するだけであろう。
 戦後、日本のアジア侵略について、「ニッポン・タイムズ」は、こう書いた。
 「日本人は、自分たちが考えていたことと、世界のほかの人々がほぼ常識と受けとめたことのあいだに、なぜこれほどのずれがあるのか、よく考えてみるべきである。これこそ、日本がみずから引き起こした悲劇の根底にあるのだ」(イアン・プルマ『戦争の記憶日本人とドイツ人』石井信平訳、TBSブリタニカ)
 ナチスは、アーリア民族を選ばれた民族とした。日本の軍国主義は、日本を神国と呼んだ。
 特別に「神聖な民族」があるという思想は、必然的に、「劣等な民族」があるという嘘をつくり出す。
 ナチスにとって、ユダヤ民族やジプシー(ロマ)がそうであり、軍国日本にとっては中国民族や朝鮮民族がそうであったろう。
 この嘘が、あれほどの暴虐を生んだのである。
 ウィーゼンタール氏はハイヤー会長のことを「ダイナマイト」と呼ぶ。「ちっとも、じっとしていない。いつも、だれもやろうとしなかったことに挑戦している」
 知的で洗練された会長の風貌の下に、悪への崇高な「怒り」が燃えている。
 会長は、反ユダヤ主義のデマがあれば、直ちに反撃する。抗議し、謝罪させ、広く事実を知らせ、「毒草の根を抜く」ために、あらゆる方法で戦う。
 講演する。書く。テレビ討論に出演する。各国の指導者と会見する。
 アメリカ議会で公聴会を開き、ネオナチの脅威に警鐘を鳴らしたこともある。
 小さなデマでも許さない。″文明社会″が、あっという間に″悪魔の社会″に転落した歴史の教訓を忘れないからだ。
 そして「人権」を教えるために「寛容の博物館」を創り、ハイテクを駆使して、視覚的に、ホロコーストをはじめとする差別の実態を教えたのも会長である。
 さらに映画会社を創り、みずから製作や脚本まで手がけて、「真実」を訴える。ナチズムに共感している青年たちに対して人権教育をする。休むことがない。
 ウィーゼンタール氏は「希望は生き続ける。皆が過去を忘れないかぎり」と言ったが、ハイヤー会長の活動は、こう呼びかけている。
 「希望は生き続ける。あなた方が黙ってしまわないかぎり」と。
4  私たちは忘れない
 私が「寛容の博物館」を訪れたのは九三年の一月三十一日であった
 二月初旬のオープンを控え、きわめて多忙のなかを、ハイヤー会長は懇切に案内してくださった。
 アウシュビッツの模型があった。ユダヤ人を隔離して惨殺したゲットー(ワルシャワ・ゲットー)が再現されていた。多くの写真が、フィルムが、声なき人々の声を発していた。
 ──だれが、この痛恨の歴史を忘れられょうか。
 ──だれが、この事実を前に激怒せずにおられょうか。
 しかし日本では、このころも、「ユダヤ人の世界支配の陰謀」とか、ナチズムと同じ内容の本が、次々と出版されていた。
 一番の被害者を加害者であるかのように、すりかえて攻撃しているのである。
 何という無残な「反人権」の風土か。
 ハイヤー会長との出会いから、「勇気の証言──アンネ・フランクとホロコースト」展の日本巡回の計画が生まれた。
 各地で百万人の心を揺さぶる展示となった。
 会長は、広島での展示会で、凛とした声でスピーチされた。
 「今ここで大事なのは、人権が侵害されている世界のすべての地において、声高に、はっきりと、また明白に、人権擁護のために立ち上がり、絶対に訴えていくのだという一人一人の決意であります!」
 会長は「ユダヤ社会以外での″人権の英雄″」を世に知らせるために、連続講演会を企画し、光栄にもその名を「マキグチ記念人権講演会シリーズ」としてくださった。
 創価学会の牧口初代会長が、日本の軍国主義に反対して獄死した歴史を顕彰し、私どもとの連帯を宣言する命名であった。
  第一回講演に招かれた私は、最後に申し上げた。
  「偉大なる思想をもった人間と、そして民族が
  偉大なる信仰をもった人々が
  そしてまた嵐の中で
  壮大なる理想と現実に生き抜いた人間と民族のみが
  限りなき迫害を受け、耐え抜いた人間と民族のみが
  永遠にわたる歓喜と栄光と勝利の『太陽』を浴びゆくことを信じて、私の講演を終わらせていただきます」
5  会場には、ホロコーストの生存者の方々もおられた。親族が犠牲にならなかった人は、だれ一人いなかった。
 ヨーロッパで、そしてアジアで、デマと暴力に蹂躙された方々──。
 見えない幾百千万の人々に、私は心で呼びかけていた。
 「あなた方のことを私は忘れません。私たちは忘れません!」と。
 「あなた方を胸に抱いて、耐えます。戦います。ともに『太陽』を仰ぐ、その日まで!」
 (一九九七年四月二十七日 「聖教新聞」掲載)

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