Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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新・黎明  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
10  四月十九日の夜、学会本部で緊急の全国代表幹部会が開催された。この席で、伸一の第三代会長推戴が、正式に発表されたのである。雷鳴のような拍手と歓声が、本部の広間に轟いた。歓喜の波に、本部は戦艦のように揺れた。
 師匠・戸田城聖から、直弟子・山本伸一へ、今、広宣流布のバトンは、名実ともに受け継がれようとしていた。
 伸一は思った。
 ″これが、私の久遠の使命なのだ。そのための青春であり、人生であったのだ″
 彼は、一九四七年(昭和二十二年)、十九歳の夏、仏法に巡り合い、戸田城聖の門下となった日からの、懐かしい来し方を思い起こした。
 戸田と共に生涯を広宣流布に捧げようと、四九年(同二十四年)一月、戸田の経営する日本正学館に少年雑誌の編集者として勤務したあの日……。
 しかし、程なく戸田の事業は暗礁に乗り上げ、雑誌も廃刊となり、新しく手がけた事業も難航を極めた。給料も遅配が続いた。夜学に通うことも、断念せざるを得なかった。
 社員であった同志も、一人、また一人と、恨み言を残して戸田のもとを去り、怒濤に身をさらすがごとき、伸一の苦闘が始まったのである。
 戸田は、自分の事業の失敗によって、学会に迷惑をかけてはならぬとの思いから、理事長辞任を発表した。それは、ちょうど伸一の入会満三年の記念日であった。
 そのなかで、伸一は誓った。
 「未来、生涯、いかなる苦難が打ち続くとも、この師に学んだ栄誉を、私は最高、最大の、幸福とする」と。
 伸一は、必死に、戸田を守り、支え、仕えた。胸を病む彼は、熱にさいなまれ、時に血さえ吐きながらも、走り抜いた。
 彼は、死を覚悟していたのである。戸田に一身を棒げ、師と共に、偉大なる広宣流布の法戦を進め、戸田が生きているうちに、広宣流布に散りゆこうと、心に決めていた。そうしなければ、後世に、まことの弟子の模範を残すことも、現代における真実の大聖人門下の鑑をつくることも、できないと考えていたのである。
 伸一の悲壮なまでの心を見抜いて、戸田は言った。
 「おまえは、死のうとしている。俺に、命をくれようとしている。それは困る。おまえは、生き抜け。断じて生き抜け! 俺の命と交換するんだ」
 伸一は、三十二歳の今日まで生き長らえ、これから、会長として広宣流布の指揮を執っていく使命を思うと、恩師が自分に命を授け与えてくれたことが、実感されてならなかった。
 ″私を、鍛え、磨き抜いてくださった先生! 信心という最高の宝を与えてくださった先生! 広宣流布という最大の使命を教えてくださった先生! そして、命さえも分け与えてくださった先生!″
 彼は、師のありがたさを思うと、込み上げる感涙を抑えることができなかった。
 ″私の人生は決まった。戸田先生の大恩に報い、先生のご遺志である広宣流布に一身をなげうとう。先生の子どもである同志を、寸りに守っていこう。わが命の燃え尽きる日まで!″
 伸一は、深く心に誓うのであった。
 彼は、戸田の弟子として生きた喜びと誇りをかみしめていた。
 師弟の道――それこそが、彼の歩んだ青春の栄光の大道であった。
 師弟という言葉に、何か時代錯誤的な、封建時代の遺物のような印象をいだく人も少なくない。しかし、いかなる道を極めるにも、師が必要である。ましてや、仏法という生命の大法を会得していくためには、それを感得し、自らを触発してくれる師の存在が不可欠となる。人間を育むものは、人間以外にない。
 古来、仏法は、師弟の道とともにあった。覚者である釈尊を自ら師と定め、随順し、己心の法を聴聞するところから、仏道修行は始まったといえよう。
 いわば、仏法の師弟とは、社会的な制度や契約とは異なり、どこまでも一個の人間の自発的な意志に基づく、求道の発露といってよい。
 利害でも打算でもなく、人間の真実の道を探求しようとする、最も純粋な魂の結合であるがゆえに、この師弟の鮮は、金剛不壊の強さをもつのである。
 伸一が、戸田を師と仰ぎ、随順したのも、戸田に請われてのことでもなければ、人に言われたからでもない。自ら誓願してのことであった。彼が、戸田の弟子となることを心に誓ったのは、戸田城聖以外には、日蓮大聖人の仏法を体現した、真実の広宣流布の指導者はいないとの大確信からであった。
 創価学会の原点は、初代会長・牧口常三郎の殉教と、その弟子である戸田の獄中の悟達にこそある。
 牧口は、総本山が戦時中、軍部政府の弾圧を恐れて、謗法厳誠の御遺誠をも破って神札を祭るにいたった時、正法正義を守り抜かんと、決然と立ち上がった。
 そして、御本仏・日蓮大聖人の仰せのままに、国家への諌暁を叫び、戦い、捕らえられ、獄中に逝いた。まさに、牧口は、法華経を身で読み、如来の行を行じたのである。
 この殉教こそ、死身弘法の証であり、日蓮大聖人の御精神の継承にほかならない。五濁の闇夜に滅せんとした正法の命脈は、ここに保たれ、学会は、大聖人に直結し、信心の血脈を受け継いだのである。
 その牧口を師と定め、随順した戸田は、共に牢獄につながれた。彼の胸には、凡愚の身にして法に命を賭し、法華経を身で読める歓喜が脈打っていた。
 戸田は、この獄中で、唱題の末に、「仏」とは「生命」であることを悟った。この時、難解な仏法の法理は、万人に人間革命の方途を開く生命の哲理として、現代に蘇ったのである。
 さらに、彼は、唱題のなかで不可思議な境地を会得していく。大聖人が地涌千界の上首として口決相承を受けられた、法華経の虚空会に連なり、金色燦然たる御本尊に向かって合掌している自分を感得したのであった。
 戸田は、込み上げる歓喜と法悦のなかで、自分は、師匠・牧口常三郎と共に、日蓮大聖人の末弟として、末法弘通の付嘱を受けた、地涌の菩薩であることを覚知した。
 地涌の菩薩の使命は、広宣流布にある。彼は、この時、この世に生を受けた自らの久遠の使命を、深く自覚することができた。
 ″これで俺の一生は決まった。今日の日を忘れまい。この尊い大法を流布して、俺は生涯を終わるのだ!″
 これこそが、戸田の獄中の悟達の結論であり、彼の大業の原動力であった。
 さらに、この時、「御義口伝」の「霊山一会儼然未散(霊山の一会は厳然として未だ散らず)」の御文を、生命の実感として拝することができた。彼は、師に随順することによって、大難に遭い、獄中にあって悟達を得たことを思うと、不思議な感慨を覚えた。
 そして、牧口との師弟の絆もまた、法華経化城喩品の「在在諸仏土常与師倶生(在在の諸仏の土に常に師と倶に生ず)」(法華経三一七ページ)の文のままに、久遠の昔より、永遠であることを感得したのである。
 しかし、ちょうどそのころ、師の牧口は、秋霜の獄舎で息を引き取ったのであった。
 戸田は、恩師の三回忌法要で、牧口の遺影に向かい、感涙のなかで、鳴咽をこらえながら語っている。
 「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れて言ってくださいました。そのおかげで『在在諸仏常与師倶生』と、妙法蓮華経の一句を、身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味を、かすかながらも身読することができました。なんたる幸せでございましょうか」
 師の牧口は、獄中に散り、死身弘法の大精神をとどめた。その精神を受け継いだ弟子の戸田は、生きて獄門を出て、広宣流布に一人立った。
 この生死を貫く師弟の不二の共戦のなかに、創価の精神はある。牧口と戸田とを不二ならしめたもの――それは、根源の師・日蓮大聖人の御遺命である広宣流布に殉じゆく強き信心の一念であった。
 山本伸一は、戸田という師なくしては、広宣流布もなければ、民衆の幸福も、世界の平和の実現もあり得ないことを、命に感じていた。事実、日蓮大聖人の御精神は、ただ一人、牧口の弟子・戸田城聖に受け継がれ、広宣流布の未来図は、彼の一念のなかに収められていた。
 仏といっても、決して架空の存在ではない。衆生を離れては、仏はあり得ない。法を弘める人こそが仏使ぶっしであり、その人を守るなかにこそ、仏法の厳護はある。
 それゆえに伸一は、戸田の手駒となり、徹して師を守り抜いてきた。その億劫の辛労を尽くしての精進のなかで、彼は、自らの使命と力とを開花させていった。そして、戸田の精神を体得し、師の境地に迫っていったのである。
 戸田城聖は、無名の民衆に地涌の使命を自覚せしめ、七十五万世帯の達成をもって、六万恒河沙の地涌の菩薩の出現を、現実のものとしゆく原理を示した。それは、法華経の予言の実現であり、日蓮大聖人の御精神の継承の証明といってよい。
 山本伸一が、今、その師の後を受け、創価学会の会長として、なすべき戦いもまた、この地涌の義を世界に実現することにあった。
 一人ひとりの胸中に打ち立てられた地涌の使命の自覚――それは、自身の存在に最も深く根源的な意味を与え、価値を創造し、悲哀の宿命をも光輝満つ使命へと転じ、わが生命を変えゆく人間革命の回転軸にほかならない。
 そして、その使命を果たしゆく時、一人の人間における偉大な人間革命がなされ、やがて、一国の宿命の転換をも可能にするのである。
 伸一の脳裏に、愛する同志の顔が、次々と浮かんでは消えていった。皆、不思議なる使命をもって、宇宙のいずこからともなく集い来った地涌の仏子であり、人間革命の大ドラマを演じゆくヒーローであり、ヒロインたちだ。
 ″この同志と共に、新しき広宣流布の幕を開こう!″
 彼は、愛する会員たちが、一人ももれなく、広宣流布の使命を果たし、人生の花園に幸の大輪を咲かせゆくことを祈り念じて、新しき門出の日を待った。
11  その日は、夜来の雨も上がり、雲一つない、さわやかな五月晴れであった。
 燦々と降り注ぐ陽光を浴びて、街路樹の新緑の若葉が、鮮やかに映えていた。
 一九六〇年(昭和三十五年)五月三日、山本伸一の第三代会長就任式となる春季総会が、東京・両国の日大講堂で開催された。
 正午、開会が宣せられた。学会歌の勇壮な調べが響き渡り、入場式が始まった。二百三本の男女青年部の旗、そして、学会本部旗に続いて、新会長の山本伸一が場内に姿を現した。
 会場を埋め尽くした同志の視線が、一斉に伸一に注がれた。彼は、壇上の真上に掲げられた戸田城聖の遺影を仰いだ。遺影の左右には、戸田の和歌が墨痕鮮やかに記されていた。
 伸一の目は、右側に掲げられた、「いざ往かん 月氏の果まで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」の歌をとらえた。戸田が会長に就任した翌年の正月、世界広布への思いを託して詠んだ、懐かしい和歌である。
 彼は、思師の遺影に誓っていた。
 ″先生! 伸一は、今、先生の後を継いで、今世の一生の大法戦を開始いたしました。生死を超えて、月氏の果てまで、世界広布の旅路を征きます。ご照覧ください″
 彼には、恩師の顔が、自分に微笑みかけているように思えた。遺影を見る伸一の目が、心なしか潤んだ。彼は、込み上げる感慨を抑えて、壇上に向かって歩みを運んだ。
 伸一が壇上に着席すると、理事の関久男の、開会の辞が始まった。関が、新会長の推戴に触れると、歓呼と拍手が湧き起こり、大波のようなどよめきが広がった。
 森川一正の経過報告、小西武雄理事長の辞任のあいさつ、原山幸一の推戴の言葉のあと、いよいよ山本伸一が、会長就任のあいさつに立った。
 喜びは爆発し、拍手の嵐が講堂の大鉄傘を揺るがした。人びとは、この日、この時を待ちわびてきた。今、友の眼前には、待望し続けてきた新会長・山本伸一が立っている。
 ″さあ、広宣流布の大前進が始まる!″
 人びとは、高鳴る胸の鼓動を感じながら、伸一の言葉に耳をそばだてた。
 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮を執らせていただきます!」
 力強い、堂々たる声の響きであった。今、新しき広布の繋明を告げる、大師子吼が放たれた。共戦を誓う同志の拍手が歓喜の潮騒となって、堂内にこだました。幸と平和の大海原へ、怒濤の前進が開始されたのだ。
 伸一の胸には、死身弘法への決意が、熱い血潮となってほとばしり、五体にうねった。まさに「開目抄」に仰せの、「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」との御金言を、深く生命に刻んだのだ。
 激闘の幕が切って落とされたのだ。
12  大歓喜のなかに総会は幕を閉じ、引き続き行われた祝賀の集いも終わろうとしていた時のことであった。
 伸一が退場しようとすると、「ワーッ」という大歓声をあげながら、青年たちが雪崩を打ったように、彼をめざして駆け寄っていった。
 皆の手が伸一を担ぎ上げ、彼の体が宙に舞った。胴上げが始まったのである。新会長の誕生を待ちに待った、青年の喜びが炸裂したのだ。
 「会長・山本先生、万歳!」
 胴上げの輪の傍らで、誰かが跳び上がるように両手を振り上げ、声を限りに叫んだ。
 「万歳! 万歳!……」
 唱和する声が、津波のように広がり、豪雨を思わせる拍手が轟き、ドームにこだました。どの顔も紅潮し、感涙に頬を濡らしていた。
 伸一の体は、高窓から差し込む光を浴びて、若人の腕の渦潮のなかで、鯱のように勇壮に躍り跳ねた。それは、栄光と嵐の、世紀の大航海に向かう丈夫の、旅立ちの乱舞であった。
 伸一の胸中は、さわやかに晴れ渡り、一点の雲さえなかった。
 満々たる闘志をたたえた使命の太陽が、黄金の光を放ち、彼の心の大空いっぱいに、まばゆいばかりに燃え輝いていた。
  
  わが恩師戸田城聖先生に捧ぐ
              弟子池田大作

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