Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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涼風  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
16  興隆寺に集った人びとは、固唾をのんで戸田城聖の言葉を待った。
 戸田はマイクに向かうと、初めから話の核心に入った。
 「昔から、僧俗一致ということが、わが宗内では叫ばれている。ところが、僧俗一致していたような寺はなかった」
 彼は、きっぱりと言った。そして、信徒の精神について述べるとともに、「坊さん側では、信者を子分か家来のようにして使おうという頭がある」と指摘していった。
 彼は、僧侶の、会員に対する傍若無人な振る舞いを、決して許さなかった。僧侶も信徒も、ともに仏子であり、また、人間として平等であらねばならないというのが、彼の信念であったからだ。
 「自分に力がなく、また、いいかげんだというと、信者の実力のある者の機嫌をとって、そうして、自分の地位を安定せしめようとする坊さんがいる。そういう坊さんに機嫌をとられた信者は、必ず退転し、ろくな目にあいません」
 地位の安定を考える生き方の根本にあるものは、保身であり、そこには、広宣流布に挺身しようとする死身弘法の精神はない。保身に走る者は、結局は、恐るべき悪知識となり、それに惑わされれば、やがては、その人も退転せざるを得ない。
 彼は、悪を見抜き、悪と戦うなかにこそ、真実の信仰の道があることを、夕張の同志に教えておきたかった。
 「もし住職に間違いがあるならば、陰口なんてきかずに、正々堂々と忠告することです。面と向かって堂々と話すことは、決して罪にはなりません。しっかりやりなさい!」
 戸田は、こう言って話を結んだ。彼は、語りながらも、祈るような気持ちであった。彼の厳しい言葉は、宗門の永遠の興隆を願い、外護せんとする、至誠の表れにほかならなかった。
 やがて、興隆寺の落慶入仏式は、滞りなく終了した。しばらく休憩したあと、本堂で祝賀の宴がもたれることになっていた。参加者は、玄関や庭に出て歓談したり、記念写真に納まりながら、祝賀会の開始を待っていた。
 夕張支部の結成大会と、興隆寺の落慶入仏式という、重なる喜びのなかで行われた祝賀の宴は、いやがうえにも雰囲気を高揚させた。
 ここ数カ月にわたる炭労との戦いで、理不尽な圧迫を打ち砕いた勝利の歓びが、夕張の同志の胸のなかで、赤々と燃え上がったのである。それは風雪の山河を越えて、希望の陽光を仰ぎ見た者のみが知る、歓喜の高まりであった。
 宴半ばにして、次から次へと歌や踊りが飛び出した。
 戸田は、「楽しくやろう。自由に!」と、全身に喜びを表す同志を笑顔でつつんだ。
 彼は、この夕張の地で、健気に戦い抜いた、名もない英雄たちの一人ひとりを讃えてやりたかった。
 広宣流布の本当の主役は、常に無名の庶民であり、一会員である。戸田は、日ごろは炭坑で塵埃にまみれ、顔を黒くして働いている人びとのなかに、尊い仏子の輝きを見ていた。
 今日の日の喜びを、和歌に託して詠む人もいた。
 ダンスホールを営む三林支部長夫妻が、得意のダンスを踊ると、堂内は大きな拍手と喝采につつまれた。
 東京から来た幹部たちが、歌を披露し始めたころ、戸田は、突然、山本伸一に言った。
 「伸一、歌いなさい」
 「はい」
 伸一は立ち上がると、張りのあるさわやかな声で歌い始めた。
  ♪人馬声なく草も伏す
   川中島に霧ふかし
   聞こゆるものはさい川の
   岸辺を洗うせせらぎぞ
 聞きなれぬ歌であった。先ほどまで歌われていた民謡や流行歌とは、趣を異にしていた。歌の名はわからなかったが、胸を打つ音律であった。浮かれた宴の雰囲気は一変し、人びとは、緊張した面持ちで耳を澄ましていた。
 堂内に凛とした声が、低く響いた。
  ♪雲か颱風はやてか秋半ば
   暁やぶるときの声
   まなじりさきてただ一騎
   馬蹄にくだく武田勢
  
   車がかりの奇襲戦
   無念や逃す敵の将
   川中島に今もなお
   その名を残す決戦譜
 歌は「霧の川中島」である。甲斐の武田信玄と、越後の上杉謙信の、川中島での四度目の壮烈な戦いを歌ったものだ。
 川中島は、千曲川と犀川の合流地点であり、街道が交わり、甲斐、越後、上野に通じる要衝の地であった。信濃を掌中に収めようとする信玄にとっても、信越国境を守ろうとする謙信にとっても、この地を制することが必須の要件であった。
 川中島の合戦は、主な戦いを数えても五回に及ぶが、最も激しい攻防戦となったのが、この四度目の戦いであった。永禄四年(一五六一年)九月九日、上杉謙信は、一万三千の軍勢を率いて、川中島の沃野を見下ろす、妻女山に本営を構えていた。
 対する武田信玄の軍勢は二万。乾坤一擲の戦いである。
 両軍とも、慎重な構えを見せ、対時したまま、なかなか動きだそうとはしなかった。
 九日夕刻、謙信は、千曲川のほとりに築かれた武田勢の海津城から、常になく炊煙が立ち昇るのを見た。謙信は、武田勢が、いよいよ動きだそうとしていることを察知した。
 武田信玄は、兵力を二分し、妻女山の北に広がる八幡原に、八千の軍勢で本営を置き、あとの一万二千の軍勢で、妻女山の背後から奇襲し、上杉勢を千曲川に追い出そうという戦法に出たのである。
 謙信は、信玄の作戦を読み取ると、その裏をかいて、いち早く、奇襲攻撃をしかけようとした。直ちに出陣の準備に取りかかった。夜の闇に乗じて、上杉勢は千曲川を渡った。
 しかし、敵の目を欺くために、妻女山の陣営には、赤々と篝火かがりびを燃やし、紙の旗が立てられた。まだ軍勢は、とどまっているかのように見えた。夜が白々と明け始めたころには、上杉勢は、八幡原に布陣を整え終わった。
 決戦の九月十日の朝は明けた。深い霧が辺りを包み、せせらぎの音が響いていた。謙信は、立ち込める朝霧のなかで、突撃の時を待った。
 やがて、霧は薄らいでいった。突撃の断が下された。朝の静寂しじまに、突如、喊声が轟き、戦いの火蓋は切られた。
 武田信玄は、八幡原の本営で、妻女山の奇襲の報告を待っていた。すると、にわかに喊声をあげて、霧のなかから、上杉の軍勢が突進してきたのである。武田の武将たちは、不測の事態に戸惑いながらも、即座に反撃に転じた。
 上杉勢は、一番手、二番手、三番手と、次々と武田の陣営に突進していった。「車懸り」の戦法である。
 対する武田勢は、鶴が羽を広げたように、弧を描いて兵が広がる「鶴翼の陣」で応戦し、壮絶な戦いが始まった。
 槍がうなり、太刀と太刀とがぶつかり合い、銃声が轟いた。川中島は修羅の巷と化したのである。
 信玄は床凡の上に腰を下ろし、次々ともたらされる戦況を聞きながら、果敢に指揮を執っていたが、時がたつにつれて、上杉勢の猛攻撃に武田勢は押され、その本営さえも、危うくなっていった。謙信にとっては、この時が、武田の本営を叩きつぶす好機であった。
 信玄は、奇襲に向かった一万二千の別働隊の到着を待っていた。
 「妻女山に向かった者たちは、まだ来ぬのか」
 上杉勢を、別働隊が背後から攻めれば、窮地は一挙に脱することができる。
 謙信は、今こそ、わが手で、信玄を討ち取ろうと、信玄発見の合図を待ちわびていた。謙信は、はやる心を抑え、戦場を見た。
 既に、武田の一万二千の大軍は、上杉勢の背後に迫りつつあった。その時、彼方に、槍先に付けられた白扇が掲げられた。
 信玄発見の合図である。謙信の目が燃えた。
 「行くぞ!」
 彼は近臣に告げると、さっそうと馬を駆った。後に十数騎が続いたが、その間隔は大きく引き離されていった。馬は砂塵を蹴立てて、まっしぐらに八幡原を疾駆していった。
 ″俺がこの手で、信玄を討つ。越後を守るために″
 謙信の脳裏に、天文二十二年(一五五三年)の、川中島の最初の合戦以来の来し方が浮かんだ。これまでの戦では、苦杯をなめたこともあった。兵も数多く失った。強くならねばと、剣も、戦法も磨いてきた。信玄を討つこと――それが、今の彼のすべてであった。
 前方に信玄の姿が見えた。両雄は、ここに相対した。謙信は三十二歳、信玄は四十一歳である。
 謙信は太刀を手に、敵の囲いを抜け、ただ一騎、信玄めざして飛びかかった。太刀を振り下ろした。とっさに信玄は軍配をかざして避けたが、謙信の一刀は信玄の肩を切りつけていた。信玄も太刀を構え、謙信の振りおろす刃を打ち返した。一騎討ちである。太刀と太刀とが、ぶつかり合い、激しく火花を散らし合った。
 横から、信玄の近臣が、槍を手に謙信に襲いかかり、彼の馬を突いた。馬はいななき、跳ね上がった。その隙に信玄は身を翻して走り去った。謙信は、後を追おうとしたが、武田の兵がそれをさえぎった。謙信の近臣が信玄を追った。
 しかし、武田の軍勢に阻まれ、とうとう信玄を逃してしまったのである。謙信の夢は破れた。無念であった。勝機を逸したのだ。
 やがて、妻女山に向かった一万二千の武田勢が相次ぎ到着すると、今度は、武田の猛烈な反撃が始まった。その猛攻に押され、上杉勢は、やむなく退却しなければならなかったのである。
17  山本伸一が、「霧の川中島」を歌い終わった。
 戸田城聖は、ハンカチで目をぬぐった。人びとは、戸田の涙を見て、目頭を熱くした。しかし、なぜ、戸田が涙したのか、わからなかった。ただ、厳粛な思いで固唾をのみ、戸田を見つめた。
 「伸、もう一度だ!」
 戸田は、語気鋭く言った。怒りをはらんだ声でさえあった。伸一は、一層、力強く、真剣な表情で歌いだした。
 人びとは居ずまいを正して、耳を傾けた。伸一の歌声が、再び堂内に響き渡った。
  ♪人馬声なく草も伏す
   川中島に霧ふかし……
 伸一の歌は、深い思いに満ちあふれていた。人びとは、ようやく歌詞に耳を澄まし始めた。
 「まなじりさきてただ一騎」の一節に、伸一の満身の力がこもった。皆は胸を突かれた。それは広宣流布に一人立った戸田城聖の姿でもあり、夕張での伸一の戦いでもあった。
 伸一が、万感の思いを託すように「無念や逃す敵の将」と歌った時、戸田の頬に、また涙が流れた。
 彼は、それをぬぐおうともしなかった。
 歌は終わった。
 「もう一度!」
 戸田は、また、伸一を促した。
 歌声は、夕張の同志の魂に染み渡っていった。命に切々と迫る何かがあった。
 歌い終わると、戸田は顔を上げて、人びとを見渡しながら言った。
 「これは夕張の歌です。君たちに、この歌の心がわかるか?」
 「霧の川中島」が、夕張の歌であると言われても、すぐには理解できかねた。皆、黙って戸田の顔を見つめた。次の瞬間、戸田の口から、火を吐くような言葉が発せられた。
 「炭労は卑怯だ! 戸田がいないのをいいことに、私の大事な弟子をいじめる。私が来ると、出て来ようともしない。どんな言いがかりでも、戸田に言ってくればよいのだ。私は、絶対に逃げ隠れはせぬ。会員は、私の大切な命だ!」
 夕張の同志は、戸田の怒りに満ちた叫びを聞いて、逃げた敵将こそ、炭労であることに気づいた。
 罪もない学会員に不当な圧迫を加え、「撲滅」を叫び、「対決」を打ち出しておきながら、ひとたび学会が抗議に立ち上がるや、身を翻し、路線を変更したのだ。
 戸田は、仏子をいじめる炭労の横暴には我慢がならなかった。彼は、夕張の同志を守るために、若き闘将・山本伸一を派遣したが、突進する伸一の馬蹄の音を聞くや、炭労は逃げたのである。
 戸田が、この夕張にやって来た目的の一つも、炭労の横暴を徹底して打ち砕くことにあった。しかし、炭労の幹部は、姿を現そうともしなかった。戸田は、討ち逃してしまった悔しさに、涙したのである。
 彼は、会員を、弟子を守るためには、命を捨てることも辞さなかった。仏子を苦しめた炭労への憤りこそが、この歌に込められた、戸田の心であった。夕張の同志は、戸田の涙が、自分たちを思う慈愛のほとばしりであったことを知った。
 ヤマの男たちは、唇をかみしめ、涙をこらえていたが、堂内の一角から鳴咽がもれた。それは、師の慈愛につつまれて生きる感涙にほかならなかった。
18  この年の八月は、各支部ごとに地方指導が実施され、全国的に弘教の波が広がった。二十八日には、豊島公会堂で本部幹部会が行われたが、発表されたこの月の折伏の成果は、四万一千世帯を超えていた。
 戸田城聖は、この飛躍を喜びながらも、数多い新入会者に十分な指導がなされず、成長の芽を摘んでしまうことを憂慮していた。
 広宣流布といっても、一人ひとりの人間革命と幸福境涯の確立がなければ、砂上の楼閣になってしまう。
 本当の意味での折伏の成就とは、入会者に信心への不動なる確信をもたせ、彼らを広宣流布の使命に、勇んで突き進む人材に育て上げた時といってよい。
 戸田は、登壇すると、静かな口調で語り始めた。
 「今月は、折伏の数が非常に多い。これは一面、まことに喜ばしいことでありますが、半面、また、非常に憂いをもつものであります。それは、この多い入会者が、本当に最後まで信心していけるかどうかという憂いであります。
 皆様も、十分、承知でありましょうが、なかには退転する人もある。また、熱心に信心に励まない人もいる。
 しかし、五年、六年、あるいは四年ぐらいでも、まじめに信心した人は、生活も向上し、願いも叶っている。
 そうした人を見るにつけ、信心をやめたり、あるいは不熱心のために、功徳を受けられない人のことが、残念に思われてならないのであります。ちょうど、宝の山に入りながら、宝を持たないで帰るようなものです」
 戸田は、退転する人びとのことを耳にするたびに、ひとり心を痛めてきた。彼は、全会員を、直接、自分の手で育てたかった。しかし、もとより世帯の急増は、それを許さなかった。結局は、幹部を育成して、日常の会員の指導を委ねざるを得なかっのである。
 戸田の願いは、支部長から組長にいたる全幹部が、彼の心を心として、戸田と同じ自覚、同じ決意で、会員の育成にあたることであった。
 彼の心とは、全会員を幸福の彼岸へと運ぶことにほかならない。それこそが、彼の根本目的であった。だから彼は、会員を睥睨するかのような幹部の態度を見ると、腹の底から激怒し、容赦なく叱責した。
 また、会員を苦しめる者があれば、どこまでも出向いて行き、命がけで戦った。さらに、会員が元気づき、喜ぶことであるなら、どんなことでもした。
 戸田は、事あるごとに、周囲の幹部たちに、こう言うのであった。
 「幹部のために会員があるのではない。会員のために幹部があるのだ。はき違えるな!」
 「幹部は、会員に奉仕するのだ。仏子に仕えるのだ。それが私の精神だ」
 戸田は、学会の幹部としての使命を、今こそ明確に語っておかなくてはならないと思った。彼は、本部幹部会に集った幹部の顔を見渡すと、話を続けた。
 「昨日、NHKの記者がまいりまして、大阪の婦人向けの番組で放送するのだからといって、いろいろな質問をしてきた。
 そのなかに、こういうのがあった。『この信仰をして、幸せになるといっても、なかには、ならない人もあるのではないか』という質問です。『断じて、そんなことはない』と、私は言いました。
 酒を飲めば人は酔う。その人の体質によって、一升では酔わなくとも、五升飲ませれば、誰でも酔うのが当たり前です。ご飯を食べるにしても、五杯も食べさせて、まだ、お腹がいっぱいにならないような人はいません。
 同じように、この信心をして、幸せにならないわけは絶対にないのです。ただ、宿業のいかんや、信心の厚薄によって、時間の長短は違います。病気をした時に、同じ薬を飲ませても、人によって早く効く場合と、時間がかかる場合があるようなものです。
 しかし、絶対に幸せになるということだけは、間違いない。ですから、せっかく御本尊様を持ちながら、それを粗末にしたりして、一生涯、損をするようなかわいそうな人たちを、出さないようにしていただきたい。
 今晩、お集まりの幹部の皆さんは、よく会員の人たちの世話をし、懇切に指導してやってください。
 そして、一人ひとりに、『信心してよかった』という喜びを、味わわせてあげていただきたいと思います」
 戸田は、組織というものは、人体に譬えれば、いわば、骨にすぎないと考えていた。そこに温かい信心の血を通わせる血管が、幹部のきめ細かな指導と激励であり、血を送る心臓は、ほかならぬ戸田自身であった。戸田は、血管が途中で詰まって、彼が送り続ける信心の血が、通わなくなることを憂えたのである。
 参加者は、会員に対する戸田の心をあらためて知り、強く胸を打たれた。参加した幹部たちは、それぞれの組織の一人ひとりを胸に浮かべ、徹底して個人指導に励もうと心に誓った。
 本部幹部会では、ブロック制の改革も発表され、まず東京都内の各区に、総ブロック制が敷かれた。新しいブロック組織は、総ブロック長、大ブロック長、ブロック長、小ブロック長という体制で出発することになったのである。また、婦人部の役職として、タテ線の地区担当員や班担当員同様に、総ブロックには総ブロック委員が、大ブロック以下の組織には、それぞれ担当員が設けられた。
 山本伸一も、この日、葛飾区の総ブロック長の任命を受けた。
 彼は、ますます多忙を極めたが、自己の責任の一つ一つを、完壁に果たしゆくことを自らに誓っていた。

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