Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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裁判  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
14  遠く、険しい道のりであった。しかし、学会の正義は、伸一の無実は、ここに証明され、欺瞞の策謀に真実が打ち勝ったのだ。遂に闇牢の巌窟は砕かれ、今、伸一の胸中には、まばゆい旭日の光彩が降り注いでいた。
 「先生!……」
 伸一は、恩師・戸田城聖を思い、心で叫んだ。
 彼の心は、にっこりと微笑む戸田を見ていた。
 傍聴していた幹部たちは、喜色満面で、たちまち伸一を取り囲んだ。
 「おめでとうございます」
 口々に、無罪となった伸一を祝した。
 彼は、弁護士たちに丁重に礼を言うと、車で関西本部に向かった。車窓には、雲聞から差し込む柔らかな冬の日差しを浴びて、堂島川が、銀色に照り輝いていた。
 車中、伸一は、一人、戸田城聖を偲んだ。
 ″先生! 先生の仰せの通りになり、晴れて無罪となりました。これで、先生の命である尊い創価学会に傷をつけずにすみました″
 彼は、師の偉大さを、しみじみとかみしめていた。そして、自分が逮捕される直前の、五七年(同三十二年)六月初旬のある夜、戸田が、広宣流布の道程は、権力の魔性との熾烈な攻防戦とならざるを得ない、と語っていたことが、思い返された。
 牧口常三郎の獄死、戸田城聖の二年間の獄中生活の苦闘……。さらに、わずか二週間ではあったが、自身の入獄と、この四年半にわたる裁判を思うと、伸一は、権力の魔性と戦いゆかねばならぬ学会の、避けがたき宿命を、強く、深く実感せざるを得なかった。
 今、山本伸一は無罪となり、広宣流布の伸展を封ぜんとする権力の画策は破れたのである。
 伸一は、思った。
 ″国家権力によって冤罪を被ってきた人びとの数は、計り知れないにちがいない。また、これまで、権力によって虐げられ、自由を奪われ、不当に差別されてきた民衆は、いかに多かったことか。いや、世界には、今なお、権力によって、虐げられ、呻吟する民衆は跡を絶たない″
 ここまで思いをめぐらした時、伸一の脳裏に、「撰時抄」の一節が浮かんだ。
 「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず
 流罪地の佐渡から鎌倉に戻られた日蓮大聖人が、御自身を迫害した権力者・平左衛門尉に対して言われた御言葉である。
 ――王の支配する地に生まれたがゆえに、身は権力のもとに従えさせられているようであっても、心は従えさせられることはない。
 つまり、いかなる権力をもってしても、強き人間の精神を縛り、支配し、隷属させることは、断じてできないとの仰せである。それは、御本仏としての御境涯を述べられたものだが、同時に、精神の自由こそ、人間に与えられた、本然の権利であることを示された、人権獲得への一大宣言とも拝せよう。
 また、大聖人は、人間は等しく仏の生命を具え、皆、わが身がそのまま宝塔であると教えられている。さらに「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」と、男女の平等をも明言された。地位や立場はもとより、国家、民族、性別など、あらゆる違いを超えて、人間は等しく、誰もが尊厳無比であり、平等であることを説かれているのである。
 日蓮大聖人の仏法は、権威、権力のための宗教でも、宗教のための宗教でも断じてない。また、一民族や一国家のための宗教でもない。まさに人間のため、人類のため、人権のための宗教なのだ。人種差別も、民族紛争も、根本的な解決の方途は、この大聖人の仏法を基調としたヒューマニズムのなかに、見いだすことができよう。
 なれば、広宣流布とは、人間の尊厳と自由と平等とを勝ち取る人権闘争にほかならないはずである。そして、そこにこそ、創価学会の担うべき社会的使命もあろう。
 この時、山本伸一の生涯にわたる人権闘争への金剛の決意が、胸中に人知れず芽吹いていたのである。
 ″権力の魔性の桎梏からの人間の解放、人権の勝利……。よし、やろう。仏子として、わが人生をかけて!″
 伸一の一念に深く刻まれたこの誓いこそ、やがて、広く世界をつつみゆく、SGI(創価学会インターナショナル)の新しきヒューマニズム運動の、大潮流をもたらす源泉にほかならなかった。
15  判決は、たちまち電波に乗り、全国のテレビ、ラジオで報道されたのをはじめ、新聞各紙にも大きく報じられた。
 山本伸一の無罪を知った同志の誰もが、「当然だ!」と思った。そして、喜びに震え、安堵に胸をなで下ろした。ことに関西の会員たちの喜びは大きかった。
 「ニュース、聞かはったか。判決が出たんや。無罪や! 先生は、無罪やで!」
 ニュースを聞いた会員たちは、同志の家々を駆け巡り、互いに手を取り合い、涙して喜び合った。仏壇の前に座り、感涙にむせびながら、感謝の祈りを捧げる人もいた。
 しかし、学会の首脳幹部には、まだ一抹の不安があった。無罪の判決は出たものの、検察は一貫して強硬姿勢を取り続けてきただけに、控訴が懸念されたからである。もし、控訴になれば、またこの先、何年間かにわたって、裁判が行われることになる。それは、学会の前進を阻む大きな障害になるであろうことは、想像にかたくない。
16  それから二週間がたつた。
 二月八日、伸一は遠く日本を離れ、中東に赴いていた。イラン、イラク、トルコ、ギリシャを経て、この日、彼は、エジプトのカイロに滞在していたのである。
 彼のもとに、学会本部から電報が届いた。
 「控訴なし……」
 判決から十四日間の控訴期間内に、検察の控訴はなかったのである。あの厳しい求刑を思うと、考えられないことであった。検察は、第一審の山本伸一の無罪判決を覆すことは困難であると判断し、やむなく控訴を断念したのであろう。
 これで、大阪地裁の判決が、最終の審判となったのである。
 伸一は、ホテルで電報を目にすると、にっこりと頷いた。窓から差し込む夕日に、彼の顔は紅に映えていた。
 彼は、深い感慨に浸りながら、大阪府警に出頭し逮捕された、一九五七年(昭和三十二年)の七月三日を思い起こしていた。その日が、奇しくも、戸田城聖が二年間の獄中生活を終えて出獄してから、十二年後の同じ日であったことを思い返すと、戸田と自分とを結ぶ、不思議な運命の絆が痛感され、感動に胸が高鳴るのを覚えた。
 「先生!……」
 今は亡き恩師を偲び、心でつぶやいた。窓外のカイロの空は、夕焼けに染まり、太陽はひときわ大きく、金色に燃えていた。
 のちに彼は、との七月三日に寄せて、万感の思いを句に託している。
  出獄と
    入獄の日に
      師弟あり

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