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日蓮大聖人・池田大作

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脈動  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
22  教学部員候補の登用試験が行われた翌日の三月五日には、山本伸一は、九州の八女市に飛んでいた。当時、関西以西には、八女支部という一支部しかなかったのである。八女は、牧口時代からの、九州の唯一の拠点として、戸田も重要視し、慈しみ育ててきた。また、このころには福岡県の北部一帯に、小岩、大阪などの各支部所属の会員が、急増し始めたところだった。
 伸一には、七月の参議院議員選挙では、大阪地方区のほかに、近畿以西の中国、四国、九州を含む広漠たる地方を地盤とする全国区候補・十条俊三のための支援活動も、重くのしかかっていた。
 十条を支援する主力となるのは、大阪を中心とする関西一円であったが、西日本に点在する会員たちを、結束させることができるか、できないかに、勝敗の分岐点があった。数人の文化部員が担当責任者として、この広い地域を奔定し始めていたが、地域の果てしない広さにのまれてしまって、底知れぬ不安を山本伸一に訴えてきた。
 全地域の布陣が遅れていることを知った伸一は、激闘の間隙を縫って、急速、大阪から九州の拠点・八女に向かったのである。比較的、会員の密集度の濃い八女をはじめとする福岡県内各地の幹部と会合をもち、綿密に打ち合わせを行った。短い滞在期間に、支援態勢の早急な形成に渾身の力を注がなければならなかった。そして、また大阪へ舞い戻った。
 戸田城聖は、三月の五、六、七日と、十九、二十、二十一日との二回にわたって、方便品・寿量品の講義、御書講義、幹部指導と、約束通りに大阪の地で、月のうち六日間を過ごした。
 東京をはじめとする全国的な活動の展開は、日々、活発化していたが、戸田と伸一とが表裏一体となっての指導態勢は、まだ、関西方面だけであった。
 関西には、あらゆる活力が蘇り、沸き立ち、渦を巻く一歩手前の状態に近づきつつあった。
 三月下旬の二十四、二十五の両日は、月例の登山会で、戸田も、伸一も、多くの首脳幹部と共に総本山にいた。
 総本山では、三月二十九日午前、第六十四世水谷日昇から、第六十五世堀米日淳へ、法主交替の儀式が挙行された。
 三月三十一日二二月度本部幹部会が豊島公会堂で開催された。
 折伏成果の発表によると、全国の成果は一万九千六百四十世帯で、このうち実に四分の一の、五千五世帯が大阪支部であり、二位の蒲田支部の三千八百十世帯を、はるかに引き離していた。規模の小さな堺支部も、十六支部のうち九位で、七百五十九世帯の成績をあげた。関西勢に、いよいよ衝天の気迫が現れてきたといってよい。
23  この日、伸一は、勇んで一人、大阪への列車に乗った。夕刻、大阪に到着すると、ブロック座談会、女子部教学研修会などに出席し、師子奮迅の活動を開始した。翌四月一日は、寸暇を惜しんでの会合と個人指導を続けた。昼間の地区部長会に続き、夜は組長指導会、翌二日は班長指導会というように、関西一円の幹部の、信心の急速な向上に、額に汗を流して奮闘したのである。
 また、今度の目的には、来る四月八日の大阪・堺二支部連合総会のための、周到在準備も含まれていた。なにしろ難波の大阪球場を使用しての野外集会である。二万人の結集を、事故なく歓喜のうちに遂行するには、その準備のために、並々ならぬ労苦を必要とした。
 任務を分担する多くの役員の決定から、会場の設営、対外交渉、地方支部員のためのバスの駐車場の指定にいたるまで、遺漏のない配慮に、心を千々に砕かなければならなかった。
 関西は、ちょうど春たけなわで、いつか桜の季節となっていた。伸一は、二日午後、暇を見つけると、一人の青年部の幹部を伴い、奈良に向かった。
 若草山に着くと、彼は、ごろりと横になって、春霞の空を仰ぎ、萌え出る草々の、かぐわしい空気を思う存分に吸った。
 忙中の閑は、彼にとって極めて貴重な蘇生の瞬間であったが、それも二十分で引き揚げなければならなかった。彼は、大阪へ、とって返した。夜の班長指導会が待っていたからである。
24  四月一日、戸田城聖は仙台にいた。仙台支部の、支部長の交代にともなう支部幹部会に出席するためであった。
 夕刻六時、仙台市公会堂で、支部旗の返還・授与が厳粛に行われた。これまで支部長を務めてきた白谷邦男は、初代の学生部長に任命され、新たに仙台支部長として釜屋孝吉が就住した。
 仙台支部は、戸田城聖の会長就任直後に結成された地方支部である。支部長の白谷は、戦前の入会で、戸田の会長就佳前後から彼のもとに馳せ参じ、指導を仰、ぎつつ東北広布に立ち上がった。その旺盛な意気と、学会本部と直結した信心の脈動で、新支部は急速に発展し、このころには、一万五千世帯を優に超えるまでになっていた。
 白谷支部長は、ある保険会社の仙台支社の社員であったが、東京の本社への栄転の話がもちあがった。しかし、彼は創価学会の支部長である。自身の栄達のために、仙台の同志と別れることはできない。彼は、迷った揚げ句、戸田城聖に打ち明け、指導を仰いだ。
 この日の集会で、戸田は、冒頭から、このことに触れて言った。
 「白谷君が、″東京へ行った方がいいだろうか。もし、仙台にとどまった方がよければ、会社の方へ無理に頼めば、そのようにもできま
 す″と、こういう岐路に立った時に、相談してくれました。
 私は、今が、『時』であると思いました。白谷君が、仙台支部をこれまでにした力量を信用して、私は初代の学生部長にしたのであります。さぞや、また何年間か、私に叱られ、泣くこともあろうと思うと、まことに不憫でもありますが、学生部という新しい重大な部門の健全な育成のためには、致し方のないことであります」
 学生部の設置は、早くから戸田の構想のなかにあって、東大法華経研究会などで、大学生たちを手塩にかけて育ててきていた。それを、いよいよ組織化する時機と人とを求めていた時だけに、白谷邦男の東京転任は、偶然とも思えなかった。
 彼は、白谷を学生部長に任命し、部長一人から始まる学生部の設置に踏み切ったのである。
 この日、戸田は、東北放送の求めに応じ、創価学会に対する世間の疑問に答える対談を行った。彼の応答は、いつものように淡々として、実に率直で、先入観をもつ質問者を慌てさせた。
 七月初句をめざしての全国的な準備は、文化部員によって、着実に進められていたが、学会の日常的な行事は、何一つゆるがせにすることなく、浮足立つようなことを抑えて、沈着に遂行されていた。
 戸田城聖と山本伸一は、選挙の支援活動に翻弄されることなく、関西に広宣流布の錦州城を築き上げることこそ焦点としてとらえていた。そして、学会行事の徹底と深化による信心の脈動をもって、戦いに挑んでいった。まことに日蓮大聖人の仏法の瞠目すべき偉力は、純粋にして強靭な信心の脈動以外に発動する術はないことを、身をもって知っていたからである。

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