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日蓮大聖人・池田大作

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明暗  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
35  一九五四年(昭和二十九年)という年は、一月二日、皇居の二重橋(石橋)の上で、参賀の群衆が混乱し、圧死十六人、重軽傷六十数人を出すという不祥事から明けた。
 ビキニの水爆実験が、黒い恐怖を日本の人びとに与え、国民は政府の勇断を望んだが、その政府は造船疑獄の黒い霧でかすんでいった。この根深い汚職事件は進展し、時の自由党幹事長が、造船業界から約二千万円を収賄した疑いが濃くなり、検察当局は逮捕を国会に請求するにいたった。
 四月二十一日、吉田茂首相は、時の法相に命じて、突如、検察庁法第一四条によって指揮権発動を行い、逮捕延期を指示した。幹事長の逮捕は、内閣の命運を左右したからである。指揮権発動の根拠は、「事件の法律的性質と重要法案の審議の現状に鑑みて、本件は特別例外的事情にあるもの」という、内閣には、まことに都合のよい見解であった。
 これを発動した法相は、直ちに辞職。左右両派の社会党を中心に、野党は憤激して内閣不信任案を提出したが、二百八対二百二十八の小差で否決された。後任の法相は、「延期指示は国会終了とともに消滅する」と検事総長に伝えたものの、逮捕の時期を失った事件は闇に葬られた。
 ともかく、指揮権発動は自由党幹事長を救ったが、後に続いたであろう多くの逮捕予定者をも救い、さらに百人に及ぶ被取調者をかかえた吉田内閣の危機を救った。事件は下級官僚二人の自殺を出して不問に付されたのである。
 しかし、吉田政権は極めて不安定なものとなり、以来、保守党内の内紛が続き、反吉田の鳩山一郎らによって、日本民主党が、十一月二十四日、結成をみた。これで内閣不信任案の成立は確実となり、十二月七日、満六年にわたって続いた吉田内閣は総辞職し、崩壊したのである。
36  朝鮮戦争(韓国戦争)休戦後の、わが国の経済界の状況はどうかといえば、特需依存は昔日の話となり、アメリカの経済援助も空しい期待に終わり、前途の見通しも暗澹としてきた。ほそぼそと自立経済に向かわなければならなくなった。国際収支は悪化し、経済的危機は、日本列島に重く覆いかぶさってきたのである。
 近江絹糸などの長期ストライキをはじめとし、数々の争議が各所で始まった。国際情勢は冷戦の重圧、政局は不安、経済界は前途に光明を見いだすととなく、危機的な世情のなかで、国民は暗い表情を余儀なくされていた
 このような重苦しい世間をよそに、貧しい日常のなかで、ひたすら希望に燃えた瞳を輝かせている一団があった。それは、戸田城聖に率いられた創価学会である。全国民からすれば、芥子粒ほどの少人数で、全く社会に埋没しているように見えたが、光るものは、明るく光っていた。
 この年に、光は急速に増大しつつあった。世間も、ようやく、この光を無視できないところまでしたが、不思議な光を光として信ずることを拒否し、批判の砲火を浴びせ始めた。しかし、この不思議な光は、当時の社会の闇がいかに黒かったか、その明暗を色濃く照らし出したのである。

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