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日蓮大聖人・池田大作

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余燼  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
17  戸田城聖は、この時、細井庶務部長に答えた。
 「宗務院のご命令とあれば、これに従います。謝罪状を書けとのことですが、猊下を悩まし奉ったことに対しての詫状でありますれば、なんの異存もありません。さっそく、これを認めて提出します。
 次に、公の場所でのお言葉のことでありますから申し上げますが、先ほどのお言葉のなかにありました『宗内の面目を失った』というお言葉と、『不祥事件』とのお言葉は、お取り消し願いたく存じます」
 彼は、特に言葉に固執したわけではなかったが、この場合、一つの言葉によって、事件の性質、本質が、全く違ったものとして受け取られてしまう恐れがある。令法久住という大目的のうえに、あえて行った学会の行動が、そうした言葉によって真実の姿を歪められることが、彼には忍びがたかったのである。
 細井庶務部長は、これを聞くと、伸びやかに笑って答えた。
 「わかりました。それらの言葉は、今度の事件が新聞などで誤って伝えられたり、各地の人びとが、くだらないデマを飛ばしたこと等を指しているのであって、あなたの行為を指すのではありません」
 細井は、こう言ってから居ずまいを正すと、傍らの書状を手に取った。
 細井が手にした書状は、四月二十七日以来の事件に関する日昇の誠告文であった。
 「今回のことについて、猊下より誠告文が下されましたので、これを拝読いたします」
 一同は、さっと緊張して聞いた。
 誠告文は、宗会決議には触れず、笠原事件を「遺憾の極み」と述べ、儀式を騒がせたことに強く反省を求めていた。しかし、その言葉には、戸田の護法の功績への評価と、宗門の外護を期待する心がにじみ出ていた。そして、戸田の処遇については、最後に次のように述べていた。
 「……法華講大講頭の職に於ては、大御本尊の宝前に於て自ら懺悔して、大講頭として恥ずるならば即座に辞職せよ。若し恥じないと信ずるならば、心を新たにして篤く護惜建立の思をいたし、総本山を護持し、益々身軽法重、死身弘法の行に精進するべきである」
 日昇の言葉を静かに聞いていた戸田は、四月末から続いた笠原事件も、これで終わったと思った。
 彼は、帰京すると、翌七月二十六日、僧侶との会見について、全面的に一切の行動を停止することを指示した。そして、そのための声明文を発表した。
 戸田は、日昇直筆の誠告文を、日に何回となく見返したが、「若し恥じないと信ずるならば、心を新たにして篤く護惜建立の思をいたし」という一節にくるたびに、不思議と総本山のたたずまいが目に浮かんでくるのであった。
 「護惜建立」とは何か、と思いをめぐらすうちに、老朽化が進んでいる五重塔に思い至った。
 ″護惜建立の実践の実を、いささかでも示して、猊下のお心に応えんとするならば、まず五重塔を修復することだ″
 数日たって、新たな決意がここに固まると、戸田は謝罪状の執筆を急いだ。
 謝罪状は、日昇を悩ましたことを詫びるとともに、総本山を厳護する創価学会の精神が、切々と肺腑をえぐる筆致でつづられていった。
 「不肖城聖は暗愚の者ではありますが、宗祖大聖人様の御威光を頂き、猊下の御徳にすがり、創価学会の折伏の精兵をひっさげて、身軽法重の御命に一身を折伏の戦陣にさらす決心であります」
 戸田は、何よりも信仰の人であった。
 謝罪状は、そのあと「護惜建立」の文を受けて、五重塔修復の誓願へと移っていく。
 「これが修復の儀を、我等創価学会に御下命下さらば、会員一同の喜び此れに過ぐるものなく、奮起勇躍して御奉公致す覚悟で御座居ます。
 謹んで我等の願望御推察せられて、御下命賜わらん事を御願い申し上げます。
  昭和二十七年七月三十日
          創価学会
            会長 戸田城聖」
18  七月三十日は、七月度の本部幹部会の日であった。八日の臨時幹部会から二十日余りしかたっていなかったが、場内の空気は、新しい出発の決意に変わっていた。
 日昇の誠告文が紹介され、その次に戸田会長の奉答文が読み上げられた。
 七月は、宗会議員との話し合いのために、多くの中心幹部が各地を訪れなければならなかったが、折伏成果は、千百六十五世帯と、千世帯を下回ることもなかった。
 八月の本部行事は、夏季講習会と、全国的規模の弘教を展開することが発表された。そして、二千世帯の達成を目標に掲げ、幹部会は力強い息吹に満ちて閉会したのである。
 なお、七月二十七日に、横浜市鶴見区市場町に白蓮院支院として、一寺が開設され、入仏式が厳かに挙行された。鶴見方面の学会員七百人が、喜々として参集した。学会の手によって誕生した第一号の寺院である。紛糾した事件のなかにあっても、広宣流布の潮は休むことなく、鶴見の岸辺に、ひたひたと寄せていたのである。
19  広宣流布への道程は、決して平坦な道ばかりではない。笠原事件は、学会を思いもかけない茨の道に踏み込ませたかに見えたが、首脳部の、心を一つにしての粘り強い話し合いの展開は、宗内を覚醒させ、見事に一つの試練を乗り越えたのである。
 立宗七百年祭に突如として燃え上がった火が、正法興隆への輝かしい門出の峰火となったといえよう。そして、そこに尾を引いた余燼は、かえって広宣流布への新たな闘争への炎となって、燃え広がっていったのである。

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