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日蓮大聖人・池田大作

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前三後一  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
19  十一月十八日――この日は、初代会長・牧口常三郎の八回忌の祥月命日であった。娘婿の尾原君蔵が施主となり、法要が営まれた。戸田は、これを喜び、この日の夕刻、多くの学会員と共に参列した。
 戸田は立って、あいさっした。
 「本日の八回忌は嬉しいのです。と言いますのは、尾原君自身が、進んでやられたからであります。
 縁の不思議について、お話しいたしますれば、私が、北海道より東京へ出て苦学をしようと決心しましたのは、十八、九歳の時でした。当時、下宿料は十八円で、郵便局勤めではどうにもならず、教員になろうと思い、牧口先生にお目にかかりました。先生は、校長で、私は、そこの代用教員として、非常に迷惑をおかけしながらも、先生にかわいがっていただきました。
 牧口先生の学校で、教員を始めた時、先生は四十九、私は二十で、先生を、親であり、師であり、主人と思ってまいりました。
 その先生と、警視庁での取り調べの時に、廊下ですれ違い、顔を見合わせて別れたのが最後となりました。
 思えば、過去からの深い因縁があると思うのであります。私は、先生の財産を全部もらったのです。嘘だと思うなら、ご覧なさい。支部長諸君をはじめ、清原、泉田、および学会幹部は、皆、牧口門下生ではありませんか。今後、私の財産は、学会育ちの子に伝わっていくのであります。
 日蓮正宗が疲弊の極にある時に立った、皆様の福運は大きいのです。御本尊様を信じ、功徳を受けようではありませんか。
 晩秋の夜は、静かに更けていった。どこかで虫の鳴く声が聞こえる。矢のように早い一年であった。さらに激戦と開拓のなかに、夢のように過ぎ去った師亡きあとの七年でもあった。
 わずかに風が窓を鳴らしていた。
 最後に、遺族を代表して、尾原君蔵が、牧口夫人と共に立って、あいさつした。
 「故・牧口常三郎の八回忌法要に、お集まりくださったことを厚く御礼申し上げます。さぞかし父も喜んでいることと思います。
 私は、血族関係からは子どもでありますが、真の子どもは、戸田先生であります。私は、弟子としても、落第ばかりしておりますが、今後、よろしくお願いいたします」
 一九五一年(昭和二十六年)も、多事繁忙の秋を送り、暮れに近づいていた。
 十一月十八日に発刊された『折伏教典』は、十二月までに希望者の手に渡ることになっていた。
 御書の校正も進み、十二月も押し詰まった二十八日から三日間、戸田をはじめとして十人の教学部員が、静岡・畑毛に赴き、堀日亨の膝下で校正作業を行った。千ページにわたる初校で、短日月に、そのうち七百ページを仕上げることができたのは、堀日亨の精励と、戸田の率先と、一同への激励によるものであったろう。
 ――この年は、まことに一瞬の怠惰も許されず、暮れたのである。
20  十二月三十一日、大晦日の日に、男子青年部員二百人が、大挙して総本山に向かった。十一月末の部員総数は、三百六十二人であるから、二百人は、その約六割にあたる。
 夕刻、東京駅を発車するころは、豪雨であった。またまた、男子部の前途多難を思わせる天候である。午後九時、西富士宮駅に着いたころは、それでも雨は上がり、曇天の暗い夜空が広がっていた。
 男子部の精鋭は駅前に並び、午後九時二十分、雨上がりの悪路をついて大石寺へ向かった。足もとも悪いうえに、暗夜である。だが、彼らには誇りに満ちた行進であった。無為の若人の多いなかで、主義と目的と使命に生き、自ら苦難を求める青春の崇高さを、かみしめていた。
 ――彼らは無意義な青春、われらは有意義な青春、と。
 二時間余りの徒歩行程である。学会歌の歌声が、いつまでも続いていった。野原を過ぎ、ゆるい坂を上りつつ、午後十一時半には大石寺に到着した。夜空には、星が瞬き始めていた。
 一九五二年(昭和二十七年)元日、午前一時。立宗七百年の第一歩の日である。彼らは、客殿で討論会を開催した。
 主催者として提示した議題は、「広宣流布までに、どんな事態が起こってくるか」というものであった。
 最初は観念的な議論が多く、やや不活発な討論であったが、具体的な問題に移ってから、急に熱気がみなぎった。他宗の大反撃を予想する人もいた。最後は暴力革命主義との対決にあるとする人もいた。議論百出となっていった。
 最後に、関青年部長は総括して言った。
 「広宣流布は御仏意である。御仏意を十分感じて行動せねばならない。仏法は、時が大切である。
 今、世界は激動しているが、われわれは、これに動ずることなく、着実に同志を拡大し、揺るぎない広宣流布の基盤をつくらねばならない。
 この根底の全体観に立って、戦うべきであり、東京はもちろん、大阪にも、日本中に橋頭堡を築かねばならない。
 われわれの行く手は苦難の道であろう。しかし、恐れなく、仏法のために戦おう! 団結して進もうではないか!」
 睡魔の競う暇もなかった。午前三時には丑寅勤行である。各自が、真剣な祈りのなかに唱題を終えた。それから二百人の参加者は、法主の水谷日昇に新年のあいさつをした。そのあと、午前五時から七時近くまで休憩時間となった。
 立宗七百年の元旦が明けてくると、快晴の空、富士の真っ白い姿が、朝日に輝いている。それは、皆の生命の輝きのようにも思われた。
 午前七時――宝蔵の前で、元旦の勤行を行い、広宣流布の先駆者としての使命を成就するよう、深く祈念したのである。
 続いて、牧口初代会長の墓に詣で、関青年部長、山際男子部長、各部隊長、そして、山本班長……と、次々、故・牧口会長に誓いの言葉を述べた。男子部長の山際は、四月の七百年祭には、男子部六百人の精鋭をもって登山することを、墓前にて宣言したのである。
 一点の雲もない快晴である。元旦の富士は、未来に羽ばたく雄々しい革命の青春群像に、笑いかけているかのようだつた。
 ここで、初めて自由時間となり、参加者は、山内をあちこちと見学し、思い出をつくっていった。
 帰途に就いたのは、午後一時である。
 男子部の、大晦日に行われた総本山への登山は、立宗六百九十九年の最後の日から、立宗七百年の元旦を、喜び迎える、先駆の象徴の姿であったといってよい。その先駆者たちが、今日の学会を築いたことも事実である。ともあれ、青年部は急速な成長期にあった。

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