Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

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18  「まず最初に、御書を拝読いたします」
 戸田は、こう言って、傍らの青年を促した。選ばれた青年は、朗々たる声で「北条時宗への御状」(御書一六九ページ)を拝読した。
 この御書は、文永五年(一二六八年)十月十一日、後に大聖人の門下になったと伝えられる幕臣・宿屋入道を通じて、時の執権・北条時宗に送ったものである。
 「国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る」とし、誤った宗教への帰依を、まずやめるべきことを主張した国主諌暁の書である。
 八年前の著作、「立正安国論」の予言が的中して、この年の一月、蒙古から牒状が到着し、国内は物情騒然たる時であった。
 「ただ今、拝読の御書は、文永五年、蒙古より日本へ牒状ありし時、日蓮大聖人様が、断固として日本国を諌暁されたところの御書であります。
 大聖人様は、権勢を恐れず、富貴にこびず、万衆を哀れみ、末法一大利益の南無妙法蓮華経を授けられた大聖哲です。創価学会の魂とは、この日蓮大聖人の魂を魂とし、一乗妙法の力で、全民衆を救うのが、学会精神であります。
 次に、学会の目的について述べるならば、奇しくも、日本国に仏法渡来してより七百年、末法御本仏・日蓮大聖人様、御出現あそばされ、権実雑乱を正されて七百年、大聖人が立宗されてより七百年を明年に控える今日、日本国あげて本尊雑乱の時となっております。
 学会は、今、日蓮大聖人の命を受けて、一閣浮提総与の御本尊様を、日本に流布せんことを誓う。これ第一条であります。
 「かくのごとく、日蓮大聖人様は、釈尊の仏法にあらず、末法唯一の仏法の出現を予言せられ、しかも南無妙法蓮華経は、日本国より、朝鮮半島、中国、インドへと、必ず渡るとの御予言であります。
 立宗以来七百年、日本に仏法渡って千四百年、もし、この南無妙法蓮華経が東洋へ行かずば、日蓮大聖人様の仰せは妄語となり、大聖人様の仏法は虚妄となるのであります。大聖人様の御予言を果たす仏弟子として、東洋への広宣流布を誓う。これ第二の目的であります。
 第三に、日蓮正宗は、総本山をはじめとして、全国五十有余の末寺にいたるまで、まさに荒れ果てなんとしている現状であります。これは、今までの檀信徒が、題目のみ唱えて折伏をせず、本尊流布をしないゆえであります。
 しからば、学会はいかん。総本山との交流をはかり、『真実の仏法、日本にあり』と宗教界に示すこと、すなわち学会魂で、以上の三箇条を遂行するのが、私の目的であり、学会一同の願いなのであります。
 共に手を取り合っていこうではありませんか。簡単でありますが、確信を述べて、今日の言葉といたします」
 立宗七百年を翌年に控えた戸田城聖の感慨は、広宣流布による理想社会の実現に向けて、いよいよ深まらざるを得なかった。彼は、命を賭しても、使命を貫く決意であった。三つの誓願は、彼の誓願であるとともに、また、学会の誓願でもあったのである。
 聴衆には、まさに師子のごとき彼の気迫が、強く伝わったのであろう。人びとは、寂として声なく聞いていた。真剣な眼差しに、決意を反映させている人もいた。自分の臆病な心と、戦わねばならぬ人もいた。しかし、全員が嵐のような拍手をもって応え、前進を誓ったことは事実である。
 戸田は、総会後、興奮した面持ちで控室で休んでいた。
 そこに、山本伸一が入ってきた。
 戸田は、彼を見るなり、いきなり一言った。
 「伸ちゃん、今日の演説は、よかったよ。まあ、ここへ座れ。これからも、しっかり頑張りたまえ」
 戸田は、さも嬉しそうに顔をほころばせた。伸一は、めったに人を褒めない戸田から、意外にも褒められて、すっかり照れてしまった。
 ここまで育った伸一が、戸田には、よほど嬉しかったにちがいない。一日中、ご機嫌で、伸一を側から離さず、祝賀の宴でも、盛んに盃を傾けていた。
19  十一月十八日――この日は、初代会長・牧口常三郎の八回忌の祥月命日であった。娘婿の尾原君蔵が施主となり、法要が営まれた。戸田は、これを喜び、この日の夕刻、多くの学会員と共に参列した。
 戸田は立って、あいさっした。
 「本日の八回忌は嬉しいのです。と言いますのは、尾原君自身が、進んでやられたからであります。
 縁の不思議について、お話しいたしますれば、私が、北海道より東京へ出て苦学をしようと決心しましたのは、十八、九歳の時でした。当時、下宿料は十八円で、郵便局勤めではどうにもならず、教員になろうと思い、牧口先生にお目にかかりました。先生は、校長で、私は、そこの代用教員として、非常に迷惑をおかけしながらも、先生にかわいがっていただきました。
 牧口先生の学校で、教員を始めた時、先生は四十九、私は二十で、先生を、親であり、師であり、主人と思ってまいりました。
 その先生と、警視庁での取り調べの時に、廊下ですれ違い、顔を見合わせて別れたのが最後となりました。
 思えば、過去からの深い因縁があると思うのであります。私は、先生の財産を全部もらったのです。嘘だと思うなら、ご覧なさい。支部長諸君をはじめ、清原、泉田、および学会幹部は、皆、牧口門下生ではありませんか。今後、私の財産は、学会育ちの子に伝わっていくのであります。
 日蓮正宗が疲弊の極にある時に立った、皆様の福運は大きいのです。御本尊様を信じ、功徳を受けようではありませんか。
 晩秋の夜は、静かに更けていった。どこかで虫の鳴く声が聞こえる。矢のように早い一年であった。さらに激戦と開拓のなかに、夢のように過ぎ去った師亡きあとの七年でもあった。
 わずかに風が窓を鳴らしていた。
 最後に、遺族を代表して、尾原君蔵が、牧口夫人と共に立って、あいさつした。
 「故・牧口常三郎の八回忌法要に、お集まりくださったことを厚く御礼申し上げます。さぞかし父も喜んでいることと思います。
 私は、血族関係からは子どもでありますが、真の子どもは、戸田先生であります。私は、弟子としても、落第ばかりしておりますが、今後、よろしくお願いいたします」
 一九五一年(昭和二十六年)も、多事繁忙の秋を送り、暮れに近づいていた。
 十一月十八日に発刊された『折伏教典』は、十二月までに希望者の手に渡ることになっていた。
 御書の校正も進み、十二月も押し詰まった二十八日から三日間、戸田をはじめとして十人の教学部員が、静岡・畑毛に赴き、堀日亨の膝下で校正作業を行った。千ページにわたる初校で、短日月に、そのうち七百ページを仕上げることができたのは、堀日亨の精励と、戸田の率先と、一同への激励によるものであったろう。
 ――この年は、まことに一瞬の怠惰も許されず、暮れたのである。
20  十二月三十一日、大晦日の日に、男子青年部員二百人が、大挙して総本山に向かった。十一月末の部員総数は、三百六十二人であるから、二百人は、その約六割にあたる。
 夕刻、東京駅を発車するころは、豪雨であった。またまた、男子部の前途多難を思わせる天候である。午後九時、西富士宮駅に着いたころは、それでも雨は上がり、曇天の暗い夜空が広がっていた。
 男子部の精鋭は駅前に並び、午後九時二十分、雨上がりの悪路をついて大石寺へ向かった。足もとも悪いうえに、暗夜である。だが、彼らには誇りに満ちた行進であった。無為の若人の多いなかで、主義と目的と使命に生き、自ら苦難を求める青春の崇高さを、かみしめていた。
 ――彼らは無意義な青春、われらは有意義な青春、と。
 二時間余りの徒歩行程である。学会歌の歌声が、いつまでも続いていった。野原を過ぎ、ゆるい坂を上りつつ、午後十一時半には大石寺に到着した。夜空には、星が瞬き始めていた。
 一九五二年(昭和二十七年)元日、午前一時。立宗七百年の第一歩の日である。彼らは、客殿で討論会を開催した。
 主催者として提示した議題は、「広宣流布までに、どんな事態が起こってくるか」というものであった。
 最初は観念的な議論が多く、やや不活発な討論であったが、具体的な問題に移ってから、急に熱気がみなぎった。他宗の大反撃を予想する人もいた。最後は暴力革命主義との対決にあるとする人もいた。議論百出となっていった。
 最後に、関青年部長は総括して言った。
 「広宣流布は御仏意である。御仏意を十分感じて行動せねばならない。仏法は、時が大切である。
 今、世界は激動しているが、われわれは、これに動ずることなく、着実に同志を拡大し、揺るぎない広宣流布の基盤をつくらねばならない。
 この根底の全体観に立って、戦うべきであり、東京はもちろん、大阪にも、日本中に橋頭堡を築かねばならない。
 われわれの行く手は苦難の道であろう。しかし、恐れなく、仏法のために戦おう! 団結して進もうではないか!」
 睡魔の競う暇もなかった。午前三時には丑寅勤行である。各自が、真剣な祈りのなかに唱題を終えた。それから二百人の参加者は、法主の水谷日昇に新年のあいさつをした。そのあと、午前五時から七時近くまで休憩時間となった。
 立宗七百年の元旦が明けてくると、快晴の空、富士の真っ白い姿が、朝日に輝いている。それは、皆の生命の輝きのようにも思われた。
 午前七時――宝蔵の前で、元旦の勤行を行い、広宣流布の先駆者としての使命を成就するよう、深く祈念したのである。
 続いて、牧口初代会長の墓に詣で、関青年部長、山際男子部長、各部隊長、そして、山本班長……と、次々、故・牧口会長に誓いの言葉を述べた。男子部長の山際は、四月の七百年祭には、男子部六百人の精鋭をもって登山することを、墓前にて宣言したのである。
 一点の雲もない快晴である。元旦の富士は、未来に羽ばたく雄々しい革命の青春群像に、笑いかけているかのようだつた。
 ここで、初めて自由時間となり、参加者は、山内をあちこちと見学し、思い出をつくっていった。
 帰途に就いたのは、午後一時である。
 男子部の、大晦日に行われた総本山への登山は、立宗六百九十九年の最後の日から、立宗七百年の元旦を、喜び迎える、先駆の象徴の姿であったといってよい。その先駆者たちが、今日の学会を築いたことも事実である。ともあれ、青年部は急速な成長期にあった。

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