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日蓮大聖人・池田大作

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波紋  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
13  ドッジ・ラインの強行によって、一九四九年(昭和二十四年)秋になると、さしものインフレーションも徐々に収束し、頭打ちとなった。物価も、わずかながら下降し始めたのである。当時の東京の小売物価指数を総理府の統計で見ると、その事実を物語っている。
 三四年(同九年)〜四一年(同十六年)の物価の安定期を一とすると、四九年(同二十四年)は二四三・四に暴騰しており、これが
 五〇年(同二十五年)になると二三九・一と、戦後初めて、わずかながら下降している。つまり、三四年前後の物価に比し、四九年には二百四十三倍であったものが、五〇年には二百三十九倍となり、わずかに低減を示したわけである。
 ともあれ、ドッジ・ラインによって、一時的とはいえ、国民は不況に苦しまなければならなかった。日本が、困苦欠乏に耐えていたこの年の秋には、国際情勢は奔流のように変化していた。
 九月二十三日、アメリカのトルーマン大統領は、ソ連にも原子爆弾が存在する証拠を持っていることを発表した。すると、九月二十五日、ソ連は、二年前から、既に原子爆弾を保有していたことを公表した。だが、ソ連が初めて核実験に成功したのは、二年前ではなく、前月の八月であったといわれている。いずれにせよ、地球上、唯一の核保有国であったアメリカの軍事的優位は、揺らぎ始めたといえよう。
14  十月一日、北京ペキン(ベイチン)で発表された中華人民共和国政府樹立の宣言が、世界の電波に乗った。国民党軍は広東カントン(コワントン)を放棄し、重慶じゅうけい(チョンチン)に遷都した。十一月には、さらに成都せいと(チョントウ)に移ったが、一カ月後、その成都も落ちた。国民党の要人は台湾に向かい、十二月七日、台北たいほく(タイペイ)に遷都した。
 これで国民党軍は、中国大陸から完全に追い出され、広大なる大陸は共産党軍の掌中に落ちたのである。共産党軍の信念と団結が、未曾有の勝利をもたらしたわけである。
 戦っても死ぬ。戦わなくても死ぬ。それならいっそ、戦おうではないか――それが彼らの叫びであり、誓いであった。
 その行動の果敢さと粘り強さは、あの有名な長征に見ることができよう。
 ヨーロッパでは、十月七日、東ドイツにドイツ民主共和国の樹立宣言があり、アジアでも十二月二十七日に、インドネシア連邦共和国が成立している。
 東西両陣営の冷戦は、いよいよ緊迫化しつつあった。そこでアメリカは、日本列島の防衛基地化を急がなければならなくなっていた。十一月一日には、米国務省から、対日講和条約の草案を準備中であることが発表されたのである。
 これこそ、第二次大戦後の、次の時代への態勢を有利に整えるためのものであったと考えられる。いや、それが焦眉の急となっていたのであろう。
 一九四九年(昭和二十四年)は、行く手に風雲をはらんで暮れていった。
 大晦日、山本伸一は、戸田城聖の家で、御書の講義を受けていた。
 終わって戸田は、ささやかながら、ご馳走を出してくれた。和やかな雰囲気であったが、彼は、一言、厳しい眼差しで言った。
 「内外ともに激動のさなかであるが、今こそ、君たち青年が、勉強しておかなければならない時だ。ぼくが、舞台はつくっておく。新しい平和の戦士となって、その舞台で大いに活躍するように――」

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