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日蓮大聖人・池田大作

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波紋  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
12  休刊の発表は、さすがに編集室の空気を変えてしまった。一種の挫折感が、社員の表情や動作に表れてきたのは否めない。
 そのなかで山本伸一は、昼は残務整理のため、作家や画家のところを飛び回った。夜になると、学会活動に打ち込んだのである。
 休刊発表の翌々日は、台風が近づいていた。彼は、そんな夜でも、先輩の三島由造と共に、嵐のなかを横浜の座談会にまで、足をはこんだのである。横浜の市電は風雨のため、しばし停電で止まった。定刻には、かなり遅れて、ようやく会場にたどり着いた。こんな嵐の夜にも、なんと五十人ほどの人びとが待っているではないか。
 破れた番傘で来た人もいる。玄関には、濡れた足をぬぐえるように、幾つもの雑巾が置いであった。
 活気にあふれた座談会となった。事業に敗れた伸一は、そのたくましい雰囲気に、一つの活路を見たように思った
 ″学会は健在である。戸田先生も健在である。自分も健在でなければならない″
 座談会の終わりごろには、台風は、いよいよ猛威を振るった。だが、彼は、思い切って外に出た。ずぶ濡れになり、題目を唱えながら歩いた。この日、帰宅したのは十二時をはるかに過ぎていた。
 その翌日は、午後から快晴になった。『少年日本』の十二月号が刷り上がった日である。最終号だ。伸一は、雑誌を机の上に置いて、何回となく開いては、一ページ、一ページに視線を注ぎ、決別の思いを込めていた。
 社員たちは、意気消沈している。あちこちの隅で、小声で話を交わしているのが、伸一の耳にも聞こえてきた。
 彼らのなかには、退職を決意している人もいる。新しい就職口を、なにかと話し合っている人もいた。要するに、社員たちの大部分は、今や浮足立っていたのである。伸一は、それらの光景を目にするのが辛く、いら立たしかった。
 そのまた翌日の午後、戸田城聖は、新しい事業の内容について発表し、新しい目標を与えたのである。彼は、社員たちの空気を、鋭く察していた。
 戸田は、二十数年にわたって経営してきた、さまざまな事業について語った。成功したり、失敗したりした数多くの経験を振り返りながら、彼の話は共産主義経済から資本主義経済に及び、信用組合の事業というものの本質に言及していった。そして、彼が、なぜ東光建設信用組合なるものに着手したかを述べ、未来への展望を語った。
 戸田は、全力をあげて話していく。
 社員のなかには、上の空で聞いている者が多い。しかし、伸一は、熱いものが胸に込み上げてきてならなかった。
 戸田は、最後にこう言った。
 「どんな事業であろうと、時に浮き沈みはあるものだ。経済には経済の法則というものがある。それを無視することはできないのです。その法則を見極めたうえで、事業の興亡を左右するものは、努力と情熱と忍耐である、ということを知るべきです。どんな大きな事業であろうと、どんな小さな事業であろうと、その苦労は同じだと思う。ぼくの、これまでの経験から言うならば、苦労さえいとわなければ、行き詰まったように思える時でも、必ず活路が開けてくるものだ」
 彼は、経理担当者を呼んだ。そして、今、手もとにある金を、すべて皆に公平に渡すよう、命じたのである。社員は、分割払いの給料をもらったが、その金が、今の会社にとって、どんなに尊いものかを知らなかった。
 残務整理が一段落すると、正式に全社員は、東光建設信用組合の従業員として、新しい業務に携わることになった。
13  ドッジ・ラインの強行によって、一九四九年(昭和二十四年)秋になると、さしものインフレーションも徐々に収束し、頭打ちとなった。物価も、わずかながら下降し始めたのである。当時の東京の小売物価指数を総理府の統計で見ると、その事実を物語っている。
 三四年(同九年)〜四一年(同十六年)の物価の安定期を一とすると、四九年(同二十四年)は二四三・四に暴騰しており、これが
 五〇年(同二十五年)になると二三九・一と、戦後初めて、わずかながら下降している。つまり、三四年前後の物価に比し、四九年には二百四十三倍であったものが、五〇年には二百三十九倍となり、わずかに低減を示したわけである。
 ともあれ、ドッジ・ラインによって、一時的とはいえ、国民は不況に苦しまなければならなかった。日本が、困苦欠乏に耐えていたこの年の秋には、国際情勢は奔流のように変化していた。
 九月二十三日、アメリカのトルーマン大統領は、ソ連にも原子爆弾が存在する証拠を持っていることを発表した。すると、九月二十五日、ソ連は、二年前から、既に原子爆弾を保有していたことを公表した。だが、ソ連が初めて核実験に成功したのは、二年前ではなく、前月の八月であったといわれている。いずれにせよ、地球上、唯一の核保有国であったアメリカの軍事的優位は、揺らぎ始めたといえよう。
14  十月一日、北京ペキン(ベイチン)で発表された中華人民共和国政府樹立の宣言が、世界の電波に乗った。国民党軍は広東カントン(コワントン)を放棄し、重慶じゅうけい(チョンチン)に遷都した。十一月には、さらに成都せいと(チョントウ)に移ったが、一カ月後、その成都も落ちた。国民党の要人は台湾に向かい、十二月七日、台北たいほく(タイペイ)に遷都した。
 これで国民党軍は、中国大陸から完全に追い出され、広大なる大陸は共産党軍の掌中に落ちたのである。共産党軍の信念と団結が、未曾有の勝利をもたらしたわけである。
 戦っても死ぬ。戦わなくても死ぬ。それならいっそ、戦おうではないか――それが彼らの叫びであり、誓いであった。
 その行動の果敢さと粘り強さは、あの有名な長征に見ることができよう。
 ヨーロッパでは、十月七日、東ドイツにドイツ民主共和国の樹立宣言があり、アジアでも十二月二十七日に、インドネシア連邦共和国が成立している。
 東西両陣営の冷戦は、いよいよ緊迫化しつつあった。そこでアメリカは、日本列島の防衛基地化を急がなければならなくなっていた。十一月一日には、米国務省から、対日講和条約の草案を準備中であることが発表されたのである。
 これこそ、第二次大戦後の、次の時代への態勢を有利に整えるためのものであったと考えられる。いや、それが焦眉の急となっていたのであろう。
 一九四九年(昭和二十四年)は、行く手に風雲をはらんで暮れていった。
 大晦日、山本伸一は、戸田城聖の家で、御書の講義を受けていた。
 終わって戸田は、ささやかながら、ご馳走を出してくれた。和やかな雰囲気であったが、彼は、一言、厳しい眼差しで言った。
 「内外ともに激動のさなかであるが、今こそ、君たち青年が、勉強しておかなければならない時だ。ぼくが、舞台はつくっておく。新しい平和の戦士となって、その舞台で大いに活躍するように――」

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