Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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時流  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
12  そこに、一人の男が、のっそり入ってきた。千谷は、「あっ」と驚いた。首筋に傷跡のある、先夜の男ではないか。男は、ジロリと千谷を脱んだ。協会長は、その男を傍らに座らせ、自国語で何か話し始めた。
 協会長は、二、三の質問をした。男は、激しい口調で経緯を説明しているらしい。協会長は頷きながら、短い質問をはさんだ。男は、まくしたてるように答えていたが、そのうちに興奮して、わめくような調子になった。紳士も詰問するように、鋭い口調になっていった。男は、頑強に反駁しているらしい。協会長は、とうとう顔を赤くして怒鳴った。
 男は、急にうなだれて、無言のまま、かしこまってしまったのである。そして、協会長は、説諭するように、諄々と男に話していた。むろん千谷には、二人の会話は、さっぱりわからなかったが、ただ話のなかで、「金木」という言葉は、何度も耳にしたのである。
 協会長は、男を叱りつけるようにして退室させると、千谷に向かって、初めて微笑んだ。
 「奥さん、来てくださって、ありがとうございました。このままにしておいたら、とんでもないことになったかもしれない」
 紳士は、千谷に軽く頭を下げてから、茶をすすった。
 「一切の責任は、私が負います。もう、ご安心くださって結構です。私も、まったく、時々やりきれなくなりますよ」
 「本当に、ありがとうございました」
 千谷は、ほっとしてか、目に涙を浮かべている。
 ″思い切って来てよかった、思い切って話をしてよかった。人間、やるべきことは、勇気と誠実で、やりきることだ。そうでなければ、ずいぶん人生にあって、損をしているかもしれないと彼女は、つくづく思ったりした。彼女は、なんとなく新しい人生への、希望が湧いてくる思いがしてならなかった。
 千谷ハツは、協会長に重ねて念を押した。
 「金木さんたちのことは、もう、心配しなくっていいのでしょうか。その点だけ、はっきりと伺っておきたいのですが……」
 「あ、それはご心配いりません。今日にも、みんなを呼んで厳命しておきます。明日のことも、私の責任で処置をつけますから、ご安心ください。まったく、ご迷惑をかけました。私からお詫びします。勘弁してやってください。私の、かわいい同胞なんです。弱い男というものは、必ず何かの力を頼らなければ生きていけないのですね。
 金木は、夫として、自分の妻に手こずってしまった。それで、自分の力では及ばないものだから、宗教に事寄せて、仲間の力を借り、自分の意思を通そうとした。とんでもない事件になるところでした。
 昨今は、いろいろ事件が多くて、本当に困っております。信仰は、あくまで自由です。宗教団体と私どもの協会とは、なんの関係もあるはずはありません」
 わかりすぎるほど、よくわかる話である。千谷は、礼を述べて帰ろうとした。その時、みんなは、自分の報告を信用しないかもしれぬ、と思った。そこで、何か証拠になるものが欲しくなった。
 「お願いですが、一筆書いていただけないでしょうか。この事件は、もう終わったという意味のことを……」
 紳士は、ちょっと緊張したが、すぐまた平静に返り、「念のためですね、簡単でいいですか」と言いながら机に戻り、筆をとった。
 ――今度の事件は遺憾に思う。学会と当協会とは、絶対に干渉し合うものではない、という旨を認めて、署名した。そして、その紙片を千谷に渡したのである。
 千谷は、それを読み、さらに協会長の顔を見ながら言った。
 「お名前のところに判子を、押していただけませんか」
 「いいですよ。なかなかお堅いのですね」
 紳士は、苦笑しながら、千谷の言うままに印を押してくれた。
 千谷は、″この協会長は、なんという、ものわかりのいい人であろう。こんな立派な人は、めったにいるものではない″とさえ思ったのである。その途端、彼女の頭にチラッとひらめくものがあった。
 ″こんな立派な人こそ、ここで折伏しなければ……″と。
 しかし、それは、今日の目的ではないことも、自覚していたのである。念書を手に握った千谷は、満面に笑みをたたえた。一刻も早く泉田に見せたくなったのである。
 彼女は、協会長に丁寧なあいさつを繰り返すと、部屋を出た。そこには、さっきの事務員が、温かく微笑んでいた。
 千谷は、女性新聞社めざして急いだ。最大の″戦利品″が、懐にはある。それを固く抱きながら、心を躍らせて、街を急いで走った。一時間前に、この道を歩いた心境と、今、この道を帰る彼女の心境とは、百八十度も変わったわけである。
 女性新聞社に着くと、千谷は、泉田を呼び出した。
 「泉田さん。ほれ、この通りケリがつきました」
 千谷は、泣きたいような感動を込めて、念書を泉田に渡した。
 彼は、念書を読むと、しばらく茫然としていた。
 「なんだ、こんなことで、すんじゃったのか。張り合いのないことだ。せっかく覚悟を決め、命もかけていたのに……。まぁ、でも、よかったな。さっそく、戸田先生にお知らせしなくては」
 彼は、受話器を手に取った。
13  その日の夜は、戸田の御書講義である。日本正学館の二階には、ぎっしりと人びとが詰めかけ、階段にまであふれでいた。熱気が、夏の夜の蒸し暑さに輪をかけていたが、誰一人、身じろぎもせず聞き入っている。戸田が、講義のなかにはさむ天衣無縫のユーモアが、時折、爆笑を誘い、息苦しさを救つていた。
 そして戸田は、先夜の小岩の座談会での事件が、急転直下、平穏に終わった経緯を話しながら、事件の成り行きに気をもんでいた人びとを安心させた。
 「広宣流布の長い旅路には、そりゃ、いろんなこが起きるさ。だが、結局は心配ないもんだよ。
 今回のことも、考えようによれば、いよいよ、大聖人の仏法が日本から朝鮮半島へ、また東洋へと流布していく、一つの瑞相ではないかと、私は思っているんです。既に七百年前に、大聖人様は、明確にそのことをおっしゃっている。『諌暁八幡抄』の最後のところを、誰か読んでごらん」
 一人の若い女性が立って、澄んだ声で読み始めた。
14  「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり
 月の輝く天空の位置は、日に日に西から東に移っていく。それは月氏(インド)の仏法である釈尊の教えが、東の方へ流布していく姿である。太陽は東から出る。日本の日蓮大聖人の仏法が、月氏国へと西還していく瑞相である。
 「ちゃんと、今日のことを、御予言になっている。ゆえに、時来るの思いを深くするんです」
 戸田城聖は、この事件の報告を聞いた時、勝負は既についていると言ったが、事件の、このような結末から逆に考えてみると、確かに勝負は不思議にもついていたといえよう。
 戸田は、言葉をついだ。
 「今、アジアで、同じ民族が分断し、争い合うとしたら、これ以上の不幸はない。それを救うことができるのは、日蓮大聖人の仏法しかありません。一日も早く、東洋に、仏法を伝えねばならない」
 彼は、憂いを吹き払うように語った。

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