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日蓮大聖人・池田大作

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生命の庭  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
19  まさに戸田城聖は、全く新しいタイプの現代思想家であり、また宗教家であったといえよう。戸田城聖の哲学と、デカルトの哲学とは、その語る内容は異質であっても、いずれも刮目すべき新しい哲理の誕生を告げたものであると、私は見たい。
 ここに一つの、人間の歴史の規範性がある。
 ――近代の淵源はルネサンスであるが、人間復興の精神は、社会の背後に、人間がはつらつと巨大な姿で現れた事実に由来するといえよう。中世の封建社会に、全く埋没していた人間が、地球の重ささえもつ存在であることに気づいたのである。
 人間における、自由、平等、尊厳の鮮烈な叫びは、社会の大変革さえもたらした。同時に、科学文明の発達は、急速に人間に関する探究を細分化し、専門化し、遂には人間本来の主体性をも見失うところまできてしまった。これが、十九世紀から二十世紀にかけての、文明社会の偽らざる姿態である。
 そして、人間性の喪失、疎外に、人びとが気づき始めた時、焦点のぼやけた「人間」群像の背後に、「生命」が、明晰な姿で現れようとしている。二十世紀半ばを過ぎて、生物学者たちは、期せずして「生命の神秘」に挑戦し始めた。第二次世界大戦後の生化学の発展は、目覚ましいものがある。
 「生命」の問題に対する関心が高まってきたことは、非常に結構なことと思う。しかし、生命を物質的側面からとらえようとする企てによって、遺伝情報を伝えていくDNA(デオキシリボ核酸)などは発見されたが、そうやすやすと生命の不可思議が解明されるとは思えない。
 いずこより来り、いずこへ行くのか――生命の本質的な神秘は、ここにある。試験管や顕微鏡の中にあるのではない。そこでとらえられるものは、生命現象の一面だけではないだろうか。
 結局、私たち自身の存在そのものが、生命それ自体なのである。してみれば、また人間の主体性を回復するためにも、この解明にこそ重点を置かなければならない。
 戸田城聖の「生命論」は、まことに新しい、生命の世紀の夜明けを告げる宣言書であると言わざるを得ない。
 今後、生命に関するいろいろな実験が重ねられ、多彩な論議が沸き起こり、さまざまな仮説も登場することであろう。そして、戸田の論文のある部分を、科学的に実証するにいたることも、おそらくはあるであろう。彼の「生命論」が、真の光彩を放ち始めるのは、その時であると確信したい。
 人びとが、生命の探究にあたって、迷路に入って行き詰まった時、立ち返るべき故郷としての「生命論」を知って、思わぬ幸せをかみしめる時も来るにちがいない。また私は、それを待とう。
 デカルトは、近代文明の夜明けに際しては、得がたい地の塩であった。しかし、彼の使命は、現代では終わったと思える。
 人間の背後に生命が、いやでも鮮明な姿を現した以上、広宣流布による人間社会の変革とともに、戸田城聖という実践的哲学者の「生命論」が、これからの時代の光源となることも、また自明の理ではないだろうか。
20  『大白蓮華』創刊号が、人びとの手に渡ったのは、六月であった。見慣れた、謄写版刷りの「価値創造」が意外な衣替えをしたので、驚いたり、喜んだりしたものである。
 しかし、誰よりも喜んだのは、まず、戸田自身であった。
 ――会員が機関誌を愛し、熟読する限りは、新たな組織の伸長が見られるであろう。その反対に、編集内容が惰性に流され、人びとが心から親しむこともなく、機関誌を大事にしなくなった時には、おのずから学会の発展も止まってしまう。
 彼は、長年の経験から、そのことを肝に銘じていたのである。
 人びとは、新雑誌の表紙を開け、戸田城聖の「生命論」を、まず読んでいった。しかし、ある人は法華経講義の、あの話だなと、軽く読み飛ばした。ある人は、かねて折伏している友人に、この「生命論」を読ませてやろうと勇み立った。またある人は、不思議な感銘をもてあまし、自分の教学力の薄弱さを恥じた。
 人びとの印象は、さまざまであった。だが、この無類の哲学論文が、二十一世紀の「生命の世紀」のために、純粋な真理を語っていることに、気づく人はいなかった。
 山本伸一は、戸田の出版社で編集の仕事を始めて、既に半年が過ぎていた。
 彼は、この創刊号を持ち帰って、夜遅く「生命論」を熟読し始めたのである。鮮烈な感動が、いきなり彼を襲ってきた。彼は、しばらく茫然としてしまった。だが、体の疲労に気づき、寝床を敷いて横になった。
 暗い部屋である。彼の頭は、なお熱かった。覚めやらぬ興奮は、彼の睡眠を、いつまでも奪ってしまった。彼は、やがて布団からはい出すと、スタンドのスイッチを入れた。そして、机にノートを広げたのである。
 彼は、この夜の感動を、彼なりの表現に託そうと、思いをめぐらしていった。詩の語句が、切れ切れに浮かび始めた。そして鉛筆は、紙の上を動き始めたのである。
21  若人に期す
  
 おお、暁の天を衝き
 無数の光彩ひかりを放ち
 燦々と太陽は昇る
 ああ その刹那の感動!
 驚嘆の生命のおののき
 それは若人の心の跳躍だ
  
 若人よ
 いま 二十世紀の原子力時代にあって
 心の哲学でなにを救えるのか 否!
 陰謀と暴力と物の哲学で
 人類が幸福になれると
 誰が信ずるのか 否! 否!
  
 生命の本質を明証し
 宇宙の本源をあかした――
 日蓮大聖人の大哲学にこそ
 若人よ わたしは身を投じよう
 智あるものは知れ
 人類を慈愛する者は動け
 悠久の平和――広宣流布
  
 若人よ 眼を開け
 若人こそ大哲学を受持して
 進む情熱と力があるのだ
 彼は、ノートを閉じて、寝床にもぐり込んだ。しばらくして、安らかな寝息をたて始めた。この夜の詩は、『大白蓮華』第二号の片隅に掲載された。

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