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日蓮大聖人・池田大作

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群像  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
12  この「三本杉」と好対照をなしていたのが、蒲田支部の「三羽鳥」――原山幸一、小西武雄、関久男の三人であった。そろって理事の任命を受け、戸田の指示に従って、各所の座談会や折伏、指導を、毎日、欠かすことがなかった。
 蒲田方面の焼け残った酒田たけの家と、三川英子の家は、座談会場として、まことに好都合であった。交通の便も、座敷の広さも、拠点としてふさわしかった。折伏活動は、全都にわたって伸び、京浜方面はもちろん、千葉方面の浦安辺りまで、小さい地方拠点をつくっていた。男女の青年部員が、いちばん多く育ったのも蒲田支部であった。
 神奈川方面には、横浜の鶴見に森川幸二がいた。その長男の森川一正は、市役所に勤めながら、新たな青年部の推進力として、活動を開始していた。さらに千葉方面や仙台方面でも、新しい人材の奮闘が目立っていったのである。
 なお東京では、やがて学会再建の中核になっていった人びとが、多数入会し、牧口時代からの人も、新たな決意で活動を開始した。蒲田の春木洋次夫妻や板見弘次、向島の星山進、城東の臼田政雄夫妻、本郷の佐木一信、築地の大馬勝三夫妻、中野の神田丈治、足立の藤川秀吉夫妻らの、壮年、婦人の人びとが、戸田のもとで正法に目覚め、偉大な信心の力を証明しようと、活躍し始めていたのである。
 一九四八年(昭和二十三年)の春ごろ、学会の総世帯数は、実質五百ぐらいと思われる。記録がないため、明確な数はわからないが、人数にして千二、三百人ぐらいであったろうか。
13  あの山本伸一も、入会以来、講義や座談会にも、たまには顔を出していた。だが彼は、依然として病弱に苦しんでいた。
 彼の舌には、食物の味はなかった。もの憂く、黙り込んで自分の部屋に入り、本を広げたと思うと、胸部の鬱血感に耐えかね、胸をかかえて、ゴロリと横に、なるしかなかった。そして、何もかもいやになり、そのまま動かずにいると、間もなく発汗が始まってくるのであった。首筋に、じっとりと、にじんだ汗が走る。しばらくすると、いつか重い体も、一時的に楽になったりした。
 そうしたなかで、夜遅くスタンドを引き寄せては、むさぼるように、本を読んだ。
 彼はふと、痩せた腕を見た。産毛の先に電灯の光を受けて、キラキラと光る汗の粒があった。
 こうして夜の数時間、彼は、読書をしたり、空想に一人、ふけったりしていた。
 戸田城聖の法華経の講義は、彼にとって大きな驚嘆であった。日蓮大聖人の仏法は、最高の驚異であり、戸田城聖の風貌は、彼の心に不世出の師として焼き付き、鮮明に残っていた。それでありながら、彼は心中深く、どうすることもできない一つの困惑を感じていたのである。
 戸田城聖のもとに、全生涯を創価学会に託することは、目的が偉大であるだけに、将来は大変な苦労となるだろう。やり通せるか、通せないか、そのいずれかである。それを、彼は直覚していた。
 だからこそ、心のなかで精いっぱいの抵抗をしていたのである
 ″逃げ出すなら、今のうちだ。後では取り返しはつかないぞ″
 彼は、時に悶々として逡巡した。しかし、読書や思索において直面するさまざまな難問が、戸田城聖に教えられた大聖人の仏法哲学の片鱗によって、ものの見事に割り切れていることを知り、仏法の真髄の偉大さを、日一日と実感せざるを得なくなっていた。
 彼の病気が、その出方によって、朝、昼、晩と、彼の住む世界を、好悪さまざまに変えるように、彼の予感する未来も、明暗両極のなかで、混沌としていた。だが、二十歳の山本伸一の心と体のなかで、何ものかが、すさまじい勢いで育っていた。それは、誰の注意も引かず、そして孤独な彼自身の気のつくところでもなかった。
 ――山本伸一をはじめ、これら数多くの創価の群像は、ことごとく戸田城聖の掌中にあったのである。
 彼は、群像の一人ひとりを、磨いて、掌中の珠にしようと、ただひたすら心を砕いていた。ある時は、やかましく、あるいは千仭せんじんの谷に落とし、さらに厳しく温かく、辛抱強く訓育していった。彼の掌中から脱落していった人びともあった。だが、掌中に残った人びとは、やがて、それぞれ代えがたい珠となっていったのである。

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