Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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群像  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
11  大島は幼くして母を亡くし、父親は再婚した。その父も早世し、あとには、継母と彼女、そして妹、弟が残されたが、継母と子どもたちとの確執が絶えなかったのである。
 彼女は、そうした家庭の事情など、今まで、人に話すのがいやで仕方なかった。だが、知らない間に、人びとの真実の情に打たれて反応したとでもいうべきであろうか。
 話を聞いた人たちは、誰も軽蔑しなかった。いや、それどころか、口をそろえて彼女を励ますのだった。
 「それが見事に解決するのよ。あなただって、幸福になる権利があるわ」
 その温かさに心を打たれた大島英子は、この日、入会を決意した。
 英子が入会して間もなく、英子たちが家を出るか、継母が家を出るかという、破滅的な事態にいたった。戦後の生活苦の最中である。どうすればよいのか、若い英子の手にあまる難問であった。
 彼女にとって、清原かつが、唯一の頼りになっていた。ある夜、彼女は、清原にすべてを語った。清原は、英子の話を聞くと、すぐに戸田のいる日本正学館に連れて行った。停電の真っ最中で、中は真っ暗であったが、二階では、にぎやかに人の声がしている。小柄な清原は、長身の英子の手を取って、狭い階段をコトコト上っていった。
 二階には、戸田城聖が藤イスに腰かけ、数人の人びとと談笑していた。太いロウソクが一本、机の上に立ち、その炎は揺らいで、壁や天井に大きな人影をつくっていた。室内には、どことなく和やかさが漂っている感じである。
 清原かつは、戸田に、大島英子の入会の経過を説明した。
 それを受けて、英子は、小さな声で、事の顛末を語り始めた。
 だが、感極まってか、英子は泣き崩れてしまった。
 「わかった、わかった……」
 戸田は、わが娘を諭すように、穏やかに話し始めた。周りの人びとも、英子にすっかり同情して、目には涙を浮かべ、戸田の口元を、ただ見つめていた。
 「案外、早く解決がつくだろう。今の悩みは簡単ともいえる。私は、そのお母さんが悪いというのでもない。あなた方が悪いというのでもない。これには、当然こうなる事情はあろう。だが、それを、今、追及しても始まらない。現実問題、それらの理屈は別として、あなたには御本尊があるはずだ。ひとたび御本尊を受持し、実践するあなたは、仏です。人を憎み、泣いてばかりいる仏などいません」
 強い言葉であった。彼女は、ロウソクの光に揺らぐ戸田の顔を仰いだ。
 「あなたは、もはや大聖人の弟子です。仏様の子どもです。日蓮大聖人は、頸の座にあっても、佐渡の雪のなかで凍えても、『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ』と、国のため、民衆のために、あれほど戦われた。
 あなたも、少なくとも勇気ある信心で、一家の柱とならなくてはならない。めそめそしているから柱が腐ってしまうんだ。一家の柱になっているか、いないか――その自覚と責任があなたにはない。ふらふらしているから苦悩が増してしまう。今日から強く自覚して立ちなさい」
 「わかりました」
 英子は、素直に頷いたものの、さて、どうしたらいいか、わからない。清原かつの口添えを期待したが、誰も押し黙っている。彼女は、口ごもりながら一言った。
 「母とは、この際、どうしても別れたいのですが……」
 「方法の問題か。方法も大切だが、もう一歩奥にあるものを考えなければいけない。それは、方法を最大限に生かしきっていくものは、信心であるということです。信心が強盛になって、強い自分に立ち返り、女王のような気位をもって、体当たりで問題の解決に取り組んでいくことだ。やってごらん。
 ただし、感情的になっては負けだよ。あくまで冷静に処理し、なさい。後は自分たちの幸福のために、御本尊に願いきっていくことだ。一人が大事なんだよ。その一人の人の信心によって、みんなが最後は幸せになっていけるんだよ」
 大島は、それから真剣に題目をあげるようになった。不安が、まず消えた。そして、話し合いの末に、事態は急転直下、見事解決したのである。二十日ほどして、継母は出て行くことになった。
 大島たちの暮らしは貧しかったが、蘇生の思いに歓喜した。やっと暗雲が晴れ渡ったのである。小さな問題の解決といえばそれまでだが、彼女にとっては、何よりも切実な問題であった。彼女は、この解決を見て、世の中の一切の不幸は、この仏法によって解決することができると奮い立った。
 清原の行くところ、入江と大島が、必ず左右にいた。講義にも、座談会にも、折伏にも、三人は一体となって活動し始めた。学会の同志たちは、意気軒昂とした三人を、いつからとなく、「杉並の三本杉」と呼ぶようになった。
 やがて、杉並の「三本杉」は、求道心をたぎらせ、学会の大地に深く根を張りながら、大きく枝を伸ばし、葉を広げていった。
12  この「三本杉」と好対照をなしていたのが、蒲田支部の「三羽鳥」――原山幸一、小西武雄、関久男の三人であった。そろって理事の任命を受け、戸田の指示に従って、各所の座談会や折伏、指導を、毎日、欠かすことがなかった。
 蒲田方面の焼け残った酒田たけの家と、三川英子の家は、座談会場として、まことに好都合であった。交通の便も、座敷の広さも、拠点としてふさわしかった。折伏活動は、全都にわたって伸び、京浜方面はもちろん、千葉方面の浦安辺りまで、小さい地方拠点をつくっていた。男女の青年部員が、いちばん多く育ったのも蒲田支部であった。
 神奈川方面には、横浜の鶴見に森川幸二がいた。その長男の森川一正は、市役所に勤めながら、新たな青年部の推進力として、活動を開始していた。さらに千葉方面や仙台方面でも、新しい人材の奮闘が目立っていったのである。
 なお東京では、やがて学会再建の中核になっていった人びとが、多数入会し、牧口時代からの人も、新たな決意で活動を開始した。蒲田の春木洋次夫妻や板見弘次、向島の星山進、城東の臼田政雄夫妻、本郷の佐木一信、築地の大馬勝三夫妻、中野の神田丈治、足立の藤川秀吉夫妻らの、壮年、婦人の人びとが、戸田のもとで正法に目覚め、偉大な信心の力を証明しようと、活躍し始めていたのである。
 一九四八年(昭和二十三年)の春ごろ、学会の総世帯数は、実質五百ぐらいと思われる。記録がないため、明確な数はわからないが、人数にして千二、三百人ぐらいであったろうか。
13  あの山本伸一も、入会以来、講義や座談会にも、たまには顔を出していた。だが彼は、依然として病弱に苦しんでいた。
 彼の舌には、食物の味はなかった。もの憂く、黙り込んで自分の部屋に入り、本を広げたと思うと、胸部の鬱血感に耐えかね、胸をかかえて、ゴロリと横に、なるしかなかった。そして、何もかもいやになり、そのまま動かずにいると、間もなく発汗が始まってくるのであった。首筋に、じっとりと、にじんだ汗が走る。しばらくすると、いつか重い体も、一時的に楽になったりした。
 そうしたなかで、夜遅くスタンドを引き寄せては、むさぼるように、本を読んだ。
 彼はふと、痩せた腕を見た。産毛の先に電灯の光を受けて、キラキラと光る汗の粒があった。
 こうして夜の数時間、彼は、読書をしたり、空想に一人、ふけったりしていた。
 戸田城聖の法華経の講義は、彼にとって大きな驚嘆であった。日蓮大聖人の仏法は、最高の驚異であり、戸田城聖の風貌は、彼の心に不世出の師として焼き付き、鮮明に残っていた。それでありながら、彼は心中深く、どうすることもできない一つの困惑を感じていたのである。
 戸田城聖のもとに、全生涯を創価学会に託することは、目的が偉大であるだけに、将来は大変な苦労となるだろう。やり通せるか、通せないか、そのいずれかである。それを、彼は直覚していた。
 だからこそ、心のなかで精いっぱいの抵抗をしていたのである
 ″逃げ出すなら、今のうちだ。後では取り返しはつかないぞ″
 彼は、時に悶々として逡巡した。しかし、読書や思索において直面するさまざまな難問が、戸田城聖に教えられた大聖人の仏法哲学の片鱗によって、ものの見事に割り切れていることを知り、仏法の真髄の偉大さを、日一日と実感せざるを得なくなっていた。
 彼の病気が、その出方によって、朝、昼、晩と、彼の住む世界を、好悪さまざまに変えるように、彼の予感する未来も、明暗両極のなかで、混沌としていた。だが、二十歳の山本伸一の心と体のなかで、何ものかが、すさまじい勢いで育っていた。それは、誰の注意も引かず、そして孤独な彼自身の気のつくところでもなかった。
 ――山本伸一をはじめ、これら数多くの創価の群像は、ことごとく戸田城聖の掌中にあったのである。
 彼は、群像の一人ひとりを、磨いて、掌中の珠にしようと、ただひたすら心を砕いていた。ある時は、やかましく、あるいは千仭せんじんの谷に落とし、さらに厳しく温かく、辛抱強く訓育していった。彼の掌中から脱落していった人びともあった。だが、掌中に残った人びとは、やがて、それぞれ代えがたい珠となっていったのである。

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