Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

新 生  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
15  新憲法制定後、初めての総選挙が、前年の四七年四月に行われた。
 その結果、日本社会党が、百四十三議席を得て第一党となり、政権を担当することになった。第一党とはいえ、三割勢力でしかない社会党は、自由党、民主党、国民協同党と連立する以外になく、四党政策協定を結んだが、組閣の人選で自由党と社会党の意見が鋭く対立し、自由党は四党連立から脱退した。結局、六月一日、社会、民主、国協の三党連立内閣が、社会党委員長の片山哲を首班として発足した。
 しかし片山内閣は、半年もたたぬうちに、社会党内の紛争もあって、崩壊を始めたのである。
 まず、結党以来の実力者であった平野力三農相が、かつて国家主義者の団体と関係があったことなどが問題視されたことから、片山は、平野に辞任を要求したが、平野はこれを拒否した。そこで片山は、憲法に基づいて閣僚罷免権を発動して、十一月四日に平野を閣外に追放した。
 これに対し、片山内閣の方針に批判的な社会党左派は、翌月、衆参合わせて七十八人の議員の署名を集めて、内閣を批判する声明を発表し、党内野党の立場に立つことを宣言した。
 また、年が明けた四八年(同二十三年)一月初頭、第三回党大会の開催直前に、平野は全農派議員十六人を引き連れて脱党した。
 一月十六日から始まった党大会では、右派と左派の対立が激化し、遂に左派が主張する″四党政策協定の破棄″が決議された。
 さらに国会でも左派の追撃は続き、翌二月四日の衆議院予算委員会で、政府の補正予算案を否決してしまった。予算委員会の委員長は、左派の鈴木茂三郎であった。
 政局は急変し、片山内閣は万策尽きて、二月十日、総辞職するにいたった。わずか八カ月余の短命内閣であった。
 二月二十三日、国会は、民主党総裁の芦田均を総理大臣に指名した。今度は、社会、民主、国協が三党政策協定を結び、三月十日、三党連立の芦田内閣が成立した。だが、芦田内閣は片山内閣よりも短命であった。
 五月に、社会党の西尾末広副総理兼国務大臣が、土建会社から多額の献金を受け取ったことが問題となり、西尾は七月に国務大臣を辞任した。
 時を同じくして、昭和電工事件が起きた。いわゆる昭電疑獄である。九月に入ると高級官僚、閣僚の逮捕が相次ぎ、芦田内閣は、十月七日に総辞職したのである。
 当時の政治道徳の退廃ぶりは、裏面を見ると、目にあまるものがあった。表面だけは民主政治の形をとっていても、実態は金権政治にほかならなかった。わが国の政治が、西欧の十八世紀の段階にあると笑われたのも、理由のないことではない。金権腐敗政治の流れは、その後も長く変わることはなかった。
 国民の一人ひとりが、主権者であることを自覚し、政治への監視を厳しくしなければ、これからも同じような状態が続くであろう。
 政界の退廃以上に、経済界には闇経済が横行し、勤労大衆の生活は、極度に貧困化していった。人心の荒廃は、言うまでもない。
 こうした時に、いつも犠牲になるのは、真面目な庶民である。為政者たちは、大衆を忘れ、自己の権勢欲を満足させるのみであった。
16  戸田城聖は、「末法濁悪」の実態を、まざまざと凝視していたが、そのような社会の激動に関して、極めて寡黙ですらあった。彼は、時代の底流に渦巻く要因を、見抜けなかったわけではない。沈黙を守っていたのである。
 戸田のもとに、弟子たちは、目にする数々の世相をあげては、憤激することがあった。その時に、彼は、決まって沈着に答えた
 「だから、広宣流布の時が来ているというのです。
 今のところは、やらせておけばいいではないか。ただ、彼らがどうやろうと、行き詰まるだけだよ。この時代に、いかに根本的に救済していけるかは、われわれだけが知っているのだ。今のうちに、せいぜい、あらゆることを勉強しておくことだよ。、どうせ忙しくなるんだから」
 戸田は、笑いに紛らわして、政治談議をすることは少なかった。
 彼は、胸中に、広宣流布の伸展につれて、やがて学会が社会をリードしていく時が、必ず到来することを確信していた。彼の今の実践は、その基盤を、一歩一歩、確実に、つくっていることにほかならなかった。
 彼は、野に伏し、山に伏しながら、新しい時代の到来を信じて、未来に羽ばたく愛すべき庶民を、わが弟子として、つくりつつあったのである。

1
15