Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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地涌  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
16  東京は、既に桜の花が散り、春風が心地よい季節を迎えていた。
 向学心に燃えて上京した戸田であったが、経済的基盤が整わず、一日たりとも、苦闘のない日はなかった。
 戸田は、ある日、思いあまって、初めて母方の知人である、海軍中将の屋敷を訪れたのである。
 その家では、遠来の客を座敷に通しはしてくれたが、権門の悲しさは、一青年の大志を理解し得なかった。よれよれの袴をはいた、貧しい身なりの青年である。戸田は、初めは都会人の、人当たりのいい応対に、心を許して話し込んでいた。だが、心では軽蔑しながら、表面だけ相槌を打っていることに、すぐ気づいた。親身に話を聞くよりも、かかわり合いになることを、ひたすら避けていたのである。
 相手の対応が虚礼にすぎないとわかると、彼は、早く帰ることが正しいと直覚し、座を立った。
 彼が帰りかけた時、その家の妻女は、机の上にあった菓子を白紙に包んで、彼に渡そうとして愛想笑いをした。彼は、この時、憤然と拒絶した。
 「私は、こんなものを頂きに来たのではありません」
 彼は、振り返りもせず、立ち去った。以後、二度と、その家の敷居をまたぐことはなかった。
 この時の屈辱を、彼は、生涯、忘れることができなかった。そして、思い出しては、妻の幾枝に繰り返し訓戒するのであった。
 「人を身なりで判断しては、決してならない。その人が、将来どうなるか、どんな使命をもった人か、身なりなんかで、絶対に判断がつくはずがない。わが家では、身なりで人を判断することだけは、してはいけない」
 自ら味わった屈辱の思い出に照らして、彼は、他人には、同じ思いをさせたくなかったのであろう。
 ともあれ、上京当時の失意と挫折のなかで、いかに彼が苦闘していたかを物語るエピソードの一つといえる。
 困り果てた戸田は、真谷地での経験を生かし、教職に就こうと考え、牧口の自宅を訪れたのである。
 牧口は、当時、東京市の教育界では、一風変わった存在であった。一家言をなした彼の教育理論の実践は、識者の注目を集めていたのである。
 しかし、彼の教育観は、戦前、教育の金科玉条とされた教育勅語を、「道徳の最低基準」と喝破するほど、進みすぎていた。そのため、頑迷な俗吏は、彼を白眼視していたのである。
 牧口もまた、先駆者の悲哀を感じていたにちがいない。彼の卓越した理論は、時の教育官僚の用いるところとはならなかった。それどころか、愚かな為政者たちは、この市井の先覚者を冷遇し、迫害し続けたのである。
 牧口は、久し振りに会う戸田を温かく迎えた。そして、戸田が語る上京以来の苦闘と、未来への抱負を、静かに聞いていた。そのなかから、戸田の純粋な性格と、その意気を、あらためて感じ取ったにちがいない。
 「履歴書をお持ちになったかな?」
 牧口の目元には、優しい笑いが浮かんでいた。
 「はい、持ってきました」
 詰襟服のボタンを外した彼は、内ポケットから、封筒に入れた履歴書を取り出した。そして、この時、戸田は思わず口走った。
 「先生、私を、ぜひ採用してください」
 彼は、不思議に牧口に甘えることができた。
 戸田は、真剣な表情で、重ねて言った。
 「私は、どんな子どもでも、必ず優等生にしてみせます。先生、私を採用してくだされば、あとできっと、いいやつを採用してよかった、とお考えになるでしょう」
 「そうか、そうか」
 牧口は頷きながら、笑顔になっていた。
 戸田は、ちょっと照れたが、ここが大事とばかり、再び牧口に言った。
 「先生、ぜひともお願いします」
 「わかった、わかったよ。尽力しよう」
 この日、それからの二人の話は、教育の実践と研究について、長時間にわたって熱心に続けられた。
 この時、牧口は四十八歳であった。
 戸田は、牧口校長という信頼すべき人物に会えたことを、誰人に会った時よりも、心で嬉しく感じていた。
 やがて彼は、西町尋常小学校の臨時代用教員に採用された。そして、牧口と仕事の苦楽を共にするにしたがって、自分の終生の「師」であることを悟ったのである。厳しい「師」であった。生涯、褒められたことは一度もなかった。
 戸田は、いつか、牧口という一人の不世出の教育者に、人生にあっての「師」を見いだし、終生、献身をもって、純真に仕えたのである。
 彼は牧口に対して「弟子の道」を貫いた。この宿縁の深さを、仏法では「師弟不二」として説いている。
 その後、牧口と戸田が、日蓮仏法の門を叩いたのは、一九二八年(昭和三年)のことであった。入信前の二人は、「師弟不二」という言葉は、もとより知らなかったが、その心の奥底では鮮やかに知っていた。
17  今――戸田は、この「師」を失って、三年近くになっていた。そして、一人残された彼にとっては、「師」の遺業を継いで、孤軍奮闘してきた三年間である。
 今の戸田は、牧口に彼が仕えたように、彼と心を同じくする弟子の出現を、心待ちに待っていたのであろうか。
 電車は人びとのさまざまな思いにはかかわりなく、轟々と走っていた。
 夜の十一時近くになると、あの昼間の超混雑の客も少なくなり、夏の夜風が、涼しく感じられる。
 駅々では、疲れた人びとが降りていき、また新しい乗客が車内に入ってきた。
 電車は大崎を過ぎ、五反田に停車した。次は目黒である
 戸田は、まだ何かを思索しているようであった。
 彼は、いつか、彼自身が四十七歳になっていることに気づいた。この夜、山本伸一が十九歳と言った時、戸田は、牧口と初めて会った十九歳の時を思い出したが、現在の彼自身の年齢は、念頭に浮かばなかったのである。
 電車に乗って、自分の青春時代に、さまざまな思いをめぐらした時、牧口常三郎の面影が、ありありと蘇ってきた。そして、その時、牧口が四十八歳であったことに思いいたって、彼は愕然とした。
 ″俺は今、四十七歳だ。山本伸一は十九歳と言った。ともに、ほぼ同じ年の聞きである……″
 彼は、電車に揺られながら、窓外の闇を見つめていた。
 ″十九歳の青年は、いくらでもいる。しかし、牧口先生との出会いの時を、まざまざと思い蘇らせたのは、今日の、一人の青年ではなかったか……″
 彼は、今日の日を考えた。明日は八月十五日である。敗戦の日から満二年の月日が、夢のように流れたことを思い返した。
 この日を、国民は、終生、忘れることはないであろう。屈辱の日とする人もいよう。また、反省の日として、新生日本の、出発の日とする人もいよう。人びとは、それぞれの人生から、この日を年ごとに思い起こすにちがいない。
 戸田城聖にとっては、敗戦のこの日こそ、日本の広宣流布達成への、最大の瑞相であることを、目の当たりに見た日であった。それは悲しく、沈痛な思いをともなってはいたが、敗戦は、まぎれもなく、過去七百年来、日蓮大聖人の教えに背いた歴史の厳然たる帰結であったのだ。
 大聖人の慈悲は、実に逆縁の現証を通して、日本の広宣流布成就の悲願を、まず戸田城聖一人に自覚せしめたのである。彼の自覚の源は、牧口の真の弟子であったこと、そして師弟ともに、敢然と難に赴いたことにあったといえよう。
 今、牧口の遺業を彼と分かつ一人の青年が、四十七歳の彼の前に、出現したのである。仏法が真実であるならば、人類史上、未曾有の宗教革命を断行する人と人との聞に、必ず師弟の宿縁が、存在するはずである。
 ″あの青年は、まだ何も知らない。今は、それでよいのだ″
 戸田は、心にそれを言い聞かせながら、微笑みを含んで目黒駅のプラットホームに降り立った。

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