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日蓮大聖人・池田大作

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光と影  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
9  その後も、政府と官公庁労組との対立は続き、中労委(中央労働委員会)の斡旋にも、労使交渉は平行線をたどるばかりであった。国労は、十二月三十一日、政府に対して、一月十日までの回答を要求し、ストの構えを見せた。
 全逓も、ゼネストの準備をしていた。左翼政党間の路線の違いから、主導権をめぐる組合員同士の内紛も起こっていた。まさに、仏典に説く自界叛逆の様相が強まるなか、政局は混迷し、労使対立のまま年は暮れていった。
 年が明けて一九四七年(昭和二十二年)の元日、この混乱した事態を、さらに紛糾させるような出来事が起きた。吉田首相が、ラジオで放送した念頭のあいさつのなかで、労働組合の指導者を「不逞の輩」と非難したのである。
 吉田首相は、経済危機を叫んで社会不安をあおるような「不逗の輩」が、国民のなかに多数いるとは信じないが、日本の経済再建のためには、彼らの行動は排撃せざるを得ない――と強い表現で語っていた。
 「不運の輩」という一言は、大きな波紋を広げた。国労は、即座に、首相は、「われわれ労働者を″不逞の輩″と宣言した」と抗議し、他の労働組合も、相次いで非難の声をあげた。
 一方、この元日、産別会議では、極東委員会でソ連代表の提議に基づき決定し、前年十二月二十四日に、GHQが公表した、「日本労働組合に関する組織原則」十六原則を持ち出し、吉田首相を糾弾する撤文を発表した。
 その十六原則には、「警察その他いかなる政府機関も、労働者にたいする尾行、スト破壊または労働組合の合法活動の弾圧を行うことは許されない」などと、労働者の権利を擁護する原則がうたわれていた。それを、自分たちの運動方針を支持するものとして、闘争拡大を呼びかけたのである。彼らは、圧倒的な攻勢によって内閣を追い詰め、左翼勢力による政権誕生を、期待していた。
 政府の回答期限が過ぎた一月十一日、官公庁関係の「共闘」は、皇居前広場で「ゼネスト態勢確立大会」を聞き、四万人が、雨のなか、デモ行進した。彼らは政府に、重ねて最低基本給確立、労働協約の即時締結などとともに、吉田発言の取り消しと謝罪を求める、第二回要求書を提出した。
 しかし、これに対しても政府は、十五日、吉田発言には「誤解を招いたのは遺憾である」との回答を寄せたものの、第二回要求内容には、前年の十二月と同じく、拒否の態度を変えることはなかった。
 この日、「全国労働組合共同闘争委員会」(全闘)が発足した。これには、全官公庁労組共同闘争委員会(共闘)、産別会議、総同盟、日労会議等、五十四組合、約四百五十万の労働者が参加した。実に、この当時の労働組合の九〇パーセントという大勢力である。
 遂に十八日、「共闘」は、拡大執行委員会で、二週間後の二月一日までに、政府がすべての要求をのむ回答をしない場合は、無期限ゼネストに入ること、また、それ以前に弾圧してくる場合、自動的にゼネストに入ると、宣言したのである。吉田首相が、事態の打開へ、水面下で社会党との連立工作を策していた話し合いも、暗礁に乗り上げ、決裂してしまった。
 もはや、対決は決定的な情勢となった。「共闘」への支援態勢を組む「全闘」は、二十五日に、″倒閣メーデー″と銘打った闘争の実施を決め、産別会議傘下の全組合も、「共闘」と歩調を合わせて、二月一日にストに突入することを決定した。未曾有のゼネラルストライキが、現実のものとして迫ってきたのである。
 二十日には、産別会議議長の聴濤克巳が刺されるという事件があったが、既に、ゼネストへの勢いを押しとどめるものは、存在しないかに思えた。政府は、労働勢力の分断を策し、あるいは強権発動をにおわすなど、躍起になってスト防止に取り組んでいたが、ほとんど効果は見られなかった。
10  こうして、「共闘」を中心として、労働界が、「二・一ゼネスト」に向けて大きく動きだした。その渦中の二十二日、「共闘」の伊井弥四郎議長らが、GHQに呼び出されたのである。待っていたのは、マーカット経済科学局長であった。
 マーカットは、この日の会見の内容を公表することを禁じたうえで、ゼネスト中止を要求した。彼は、ゼネストは、通信、輸送などを混乱させるものであり、占領目的に反する行為であると指摘した。
 そして、ゼネストを強行するなら、GHQとしても相応の対応を取ることになると通告し、二十五日までの回答を求めた。
 しかし「共闘」は、協議の結果、スト中止はできないと回答したのである。
 一月二十八日には、再び皇居前広場で、「吉田内閣打倒危機突破国民大会」が、さらに大阪、名古屋、横浜でも、それぞれ集会が開かれ、デモの波がうねった。日に日に、革命前夜を思わせるような緊張と高揚が、労働者を駆り立てていた。
 無期限ゼネストの決行は、多くの産業のマヒと、社会活動の停止を意味した。国民のなかには、大混乱が予想される非常事態に備えて、食糧やロウソクの買い置きに奔走し、交通の途絶に備えるという自衛手段を講じ始める人も少なくなかった。
 二十九日になっても、中労委の仲介による政府と組合の交渉の折り合いはつかず、政府の譲歩案を拒否した「共闘」は、いよいよ二月一日のゼネスト突入の態勢を固めていた。民間の労組も、次々、支援のゼネスト参加を決議した。
 だが、GHQの介入はないことを前提に、共産党が主導して進めてきたゼネストは、ここにきて、あえなく打ち砕かれるものとなったのである。
 スト突入まで十時間と迫った三十一日午後二時半、マッカーサーは、スト中止指令を発した。
 彼は、こう宣告した。
 「現下の困窮かつ衰弱せる日本の状態において、かくのごとき致命的な社会的武器を行使することは許容しない」
 この日、マーカットは、GHQに伊井議長らを呼び出し、マッカーサーのスト中止指令の書面に、同意の署名をするよう迫った。
 議長は、「みんなに相談したうえでなければ、署名はできない」と抵抗した。彼の肩には、四百五十万労働者の重みがかかっていたのである。だが、司令部は、それを許さなかった。マーカットは、中止のラジオ放送をするよう命令してきた。長い時間、激しいやりとりの末、マーカットは、国鉄労働組合委員長を呼んで伊井に会わせた。委員長が、スト中止放送に同意し、ようやく議長は、放送原稿を書き始めたのである。そして、愛宕山のNHKに連れて行かれた。
 この時、伊井議長は、共産党書記長の徳田球一からも、「ストライキはやめるんだよ。わかったな」と告げられたことを、後に語っている。
 GHQの出方を、読み誤った彼らの矛盾が、ここに露呈されたといえよう。
 ともあれ、スト決行まで三時間を切った午後九時十五分、NHKのスタジオから、伊井議長の悲痛な声は電波に乗り、全国各地の職場で、明日のスト準備中の左翼労働者の耳に届いた。
 「……私はマッカーサー連合軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官公吏・教員の皆様に明日のゼネスト中止をお伝え致します。実に断腸の思いで組合員諸君に語ることを御諒解願います。
 私は今、一歩退却二歩前進という言葉を思い出します。私は声を大にして、日本の働く労働者、農民のためバンザイを唱えて放送を終わることにします。
 ……われわれは団結せねばならない」
 「共闘」は、放送直後、解散した。「全闘」も解散していった。
 占領軍の態度は、前年、一九四六年(昭和二十一年)の食糧メーデーのころから、微妙な変化を見せ始めていた。既に、この年の五月十五日、対日理事会の米代表ジョージ・アチソンは、マッカーサーの意を受けて、「共産主義を歓迎しない」とのGHQの声明を発表していた。
 アメリカ本国においては、ルーズベルトのニューディール政策が後退し、トルーマン大統領による冷戦の対策が進められていた。この変化は、当然、GHQ内の人事や、占領方針にも現れてきていた。
 既に、この四六年(同二十一年)三月、英国のチャーチル前首相は、「鉄のカーテン」と呼んで、東西冷戦の対立構造の表面化を警告しているが、政治闘争化した労働運動にも、その対立図式が、微妙に影を落とし始めたのである。
11  戸田城聖は、二月二日、夜の法華経講義のあと、質問に答えて言った。
 「要するに、医者で治るような病気は、医者で治せばいいのだ。しかし、医者で治らない病気、これが人生の難問です。だが、いくら難問でも、これを解決できる法がある。絶対に治すことができる、と言ったらどうだろう。
 それと同じように、ストライキで解決のつく問題は、ストライキで解決すればよい。経済闘争といい、政治闘争といい、みんな一生懸命だが、それで解決するような問題は、どしどし解決するがいい。
 だが、それはまだ簡単な問題といえる」
 受講者たちは、固唾をのみ、真剣な表情である。
 戸田の話は続いた。
 「ところが、どうしても解決できない、重大問題がある。そういう問題を人は諦めてしまう。だが、よく考えてみると、人間の性格や宿業をはじめとして、一家の家庭の問題や生老病死など、解決できない問題の方が、意外に多いものだ。
 社会といっても、また大衆といっても、あるいは労使と分けても、所詮は一個の人間から始まって、その集団にすぎない。ゆえに、この一個の人間の問題を根本的に解決し、さらに全体を解決できる法が大事になってくる。それは、真実の大宗教による以外にないんです。
 今度のゼネストのようなことも、今後、いろいろ形を変えて起こってくるだろう。そして、そのたびに一喜一憂してみるがいい。どうやっても、こうやっても、だめだとわかった時、やっと、大聖人様の仏法のすごさというものが、しみじみと、わかつてくるにちがいない。深刻なる理解をしないでは、いられなくなる。その時が、広宣流布です。
 われわれの戦いは、今、こうしてコツコツやっているが、すごい時代が必ず来るんだよ。ゼネストなんか、今、諸君は大闘争だと思っているかもしれないが、われわれの広宣流布の戦いから見れば、小さな小さな戦いであったと、わかる時が、きっと来る。私は断言しておく。皆、しっかりやろうじゃないか」
 西神田の日本正学館の二階は、薄暗かった。厳冬の電力不足が原因である。
 そのなかで戸田城聖の声は、生き生きとしていた。みんなは、手に汗を握って聞いている。そこには、暗い必死の面影はなく、明るい希望の表情があった。
 日本国中の人びとが、労働者のゼネストの危機に頭を悩まし、憂いに沈んでいた時、戸田の心は微動だにしなかった。それは、戦時中、国中が軍国思想に狂奔していた時、彼の心の重心は、いささかの微動もなかったことと同じであった。
 かくて、敗戦の暗影が、いまだ色濃い時代のなかで、一条の光明にも似た広宣流布への指標が、一つ一つ示されていった。彼には、民族の柱としての不抜の確信が、心中深く秘められていたのである。

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