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日蓮大聖人・池田大作

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光と影  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
10  こうして、「共闘」を中心として、労働界が、「二・一ゼネスト」に向けて大きく動きだした。その渦中の二十二日、「共闘」の伊井弥四郎議長らが、GHQに呼び出されたのである。待っていたのは、マーカット経済科学局長であった。
 マーカットは、この日の会見の内容を公表することを禁じたうえで、ゼネスト中止を要求した。彼は、ゼネストは、通信、輸送などを混乱させるものであり、占領目的に反する行為であると指摘した。
 そして、ゼネストを強行するなら、GHQとしても相応の対応を取ることになると通告し、二十五日までの回答を求めた。
 しかし「共闘」は、協議の結果、スト中止はできないと回答したのである。
 一月二十八日には、再び皇居前広場で、「吉田内閣打倒危機突破国民大会」が、さらに大阪、名古屋、横浜でも、それぞれ集会が開かれ、デモの波がうねった。日に日に、革命前夜を思わせるような緊張と高揚が、労働者を駆り立てていた。
 無期限ゼネストの決行は、多くの産業のマヒと、社会活動の停止を意味した。国民のなかには、大混乱が予想される非常事態に備えて、食糧やロウソクの買い置きに奔走し、交通の途絶に備えるという自衛手段を講じ始める人も少なくなかった。
 二十九日になっても、中労委の仲介による政府と組合の交渉の折り合いはつかず、政府の譲歩案を拒否した「共闘」は、いよいよ二月一日のゼネスト突入の態勢を固めていた。民間の労組も、次々、支援のゼネスト参加を決議した。
 だが、GHQの介入はないことを前提に、共産党が主導して進めてきたゼネストは、ここにきて、あえなく打ち砕かれるものとなったのである。
 スト突入まで十時間と迫った三十一日午後二時半、マッカーサーは、スト中止指令を発した。
 彼は、こう宣告した。
 「現下の困窮かつ衰弱せる日本の状態において、かくのごとき致命的な社会的武器を行使することは許容しない」
 この日、マーカットは、GHQに伊井議長らを呼び出し、マッカーサーのスト中止指令の書面に、同意の署名をするよう迫った。
 議長は、「みんなに相談したうえでなければ、署名はできない」と抵抗した。彼の肩には、四百五十万労働者の重みがかかっていたのである。だが、司令部は、それを許さなかった。マーカットは、中止のラジオ放送をするよう命令してきた。長い時間、激しいやりとりの末、マーカットは、国鉄労働組合委員長を呼んで伊井に会わせた。委員長が、スト中止放送に同意し、ようやく議長は、放送原稿を書き始めたのである。そして、愛宕山のNHKに連れて行かれた。
 この時、伊井議長は、共産党書記長の徳田球一からも、「ストライキはやめるんだよ。わかったな」と告げられたことを、後に語っている。
 GHQの出方を、読み誤った彼らの矛盾が、ここに露呈されたといえよう。
 ともあれ、スト決行まで三時間を切った午後九時十五分、NHKのスタジオから、伊井議長の悲痛な声は電波に乗り、全国各地の職場で、明日のスト準備中の左翼労働者の耳に届いた。
 「……私はマッカーサー連合軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官公吏・教員の皆様に明日のゼネスト中止をお伝え致します。実に断腸の思いで組合員諸君に語ることを御諒解願います。
 私は今、一歩退却二歩前進という言葉を思い出します。私は声を大にして、日本の働く労働者、農民のためバンザイを唱えて放送を終わることにします。
 ……われわれは団結せねばならない」
 「共闘」は、放送直後、解散した。「全闘」も解散していった。
 占領軍の態度は、前年、一九四六年(昭和二十一年)の食糧メーデーのころから、微妙な変化を見せ始めていた。既に、この年の五月十五日、対日理事会の米代表ジョージ・アチソンは、マッカーサーの意を受けて、「共産主義を歓迎しない」とのGHQの声明を発表していた。
 アメリカ本国においては、ルーズベルトのニューディール政策が後退し、トルーマン大統領による冷戦の対策が進められていた。この変化は、当然、GHQ内の人事や、占領方針にも現れてきていた。
 既に、この四六年(同二十一年)三月、英国のチャーチル前首相は、「鉄のカーテン」と呼んで、東西冷戦の対立構造の表面化を警告しているが、政治闘争化した労働運動にも、その対立図式が、微妙に影を落とし始めたのである。
11  戸田城聖は、二月二日、夜の法華経講義のあと、質問に答えて言った。
 「要するに、医者で治るような病気は、医者で治せばいいのだ。しかし、医者で治らない病気、これが人生の難問です。だが、いくら難問でも、これを解決できる法がある。絶対に治すことができる、と言ったらどうだろう。
 それと同じように、ストライキで解決のつく問題は、ストライキで解決すればよい。経済闘争といい、政治闘争といい、みんな一生懸命だが、それで解決するような問題は、どしどし解決するがいい。
 だが、それはまだ簡単な問題といえる」
 受講者たちは、固唾をのみ、真剣な表情である。
 戸田の話は続いた。
 「ところが、どうしても解決できない、重大問題がある。そういう問題を人は諦めてしまう。だが、よく考えてみると、人間の性格や宿業をはじめとして、一家の家庭の問題や生老病死など、解決できない問題の方が、意外に多いものだ。
 社会といっても、また大衆といっても、あるいは労使と分けても、所詮は一個の人間から始まって、その集団にすぎない。ゆえに、この一個の人間の問題を根本的に解決し、さらに全体を解決できる法が大事になってくる。それは、真実の大宗教による以外にないんです。
 今度のゼネストのようなことも、今後、いろいろ形を変えて起こってくるだろう。そして、そのたびに一喜一憂してみるがいい。どうやっても、こうやっても、だめだとわかった時、やっと、大聖人様の仏法のすごさというものが、しみじみと、わかつてくるにちがいない。深刻なる理解をしないでは、いられなくなる。その時が、広宣流布です。
 われわれの戦いは、今、こうしてコツコツやっているが、すごい時代が必ず来るんだよ。ゼネストなんか、今、諸君は大闘争だと思っているかもしれないが、われわれの広宣流布の戦いから見れば、小さな小さな戦いであったと、わかる時が、きっと来る。私は断言しておく。皆、しっかりやろうじゃないか」
 西神田の日本正学館の二階は、薄暗かった。厳冬の電力不足が原因である。
 そのなかで戸田城聖の声は、生き生きとしていた。みんなは、手に汗を握って聞いている。そこには、暗い必死の面影はなく、明るい希望の表情があった。
 日本国中の人びとが、労働者のゼネストの危機に頭を悩まし、憂いに沈んでいた時、戸田の心は微動だにしなかった。それは、戦時中、国中が軍国思想に狂奔していた時、彼の心の重心は、いささかの微動もなかったことと同じであった。
 かくて、敗戦の暗影が、いまだ色濃い時代のなかで、一条の光明にも似た広宣流布への指標が、一つ一つ示されていった。彼には、民族の柱としての不抜の確信が、心中深く秘められていたのである。

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