Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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幾山河  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
12  未明の暗い道を、一行は黒羽駅へ向かって急いだ。夜明け前の冷気は、眠気を覚ますには好都合であった。が、いささか寒かった。
 途中で、強度の近視の戸田は、道沿いの小川に、足を滑らせてしまった。そして、片足を腿まで濡らしてしまったのである。
 清原と酒田が駆け寄って、濡れた足を拭いた。
 戸田は、カラカラと笑いだした。
 「肥溜の中でなくて、よかったよ」
 一同は、ぷっと噴き出した。どこで何が起きても、いつもユーモアを忘れぬ戸田であった。見送りに来た増田姉妹は、いつまでも笑い転げていた。
 やがて、空が白んできた。
 妹の政子は、つと戸田の側に寄り、小声で言った。
 「先生!」
 「なんだ」
 彼女は、口をつぐんで、なかなか言わない。
 戸田は、優しく言った
 「言ってごらん。なんでも聞いてあげるよ」
 「先生……私、東京に出たいんです」
 「どうして?……あっ、結婚のことか」
 政子は、思わず顔を赤らめ、頷いた。戸田に見抜かれたのである。胸のなかで、びっくりもした。
 「焦っちゃいかん。幸福は、遠くにあるのでは決してない」
 戸田は、ひとこと言った。
 「でも、先生、私、疎開してもう三年にもなります。話は、幾つもありましたが、みんな駄目なんです。だいいち、こんな山の中で、私にふさわしい人を、探せるはずはないと気づきました。どうしても、東京に出たいんです」
 強く意を決した話し方であった。
 政子にとっては、当時の多くの女性と同じく、戦争が結婚を遅らせていたのである。戦後になっても、彼女は、那須の山奥にいなければならなかった。結婚の機会は、失われていくように思われた。
 彼女は、いつか焦りだしたのである。
 「東京へ出さえすれば、いい相手が見つかると思うんだね?」
 戸田は、振り向いて、政子に言った。
 「そう思うんですけど・::・」
 「見つからん。焦っちゃいかん。不幸になるだけだ」
 彼は、言下に否定した。
 彼女は、失望の色を浮かべ、うなだれた。
 「ちゃんと、信心してごらん。欺されたと思ってもいいから、立派な信心を買いてごらん。山奥にいようと、都会にいようと、貴女にいちばん、ふさわしい立派な人に、必ず巡り合える。どういう順序でそうなるか、それはわからん。が、きっとそうなる。場所ではないよ。信心だ。そうでなかったら、御本尊様は、嘘だよ」
 「………………」
 戸田の指導は、いつでも、場所を選ぶことなく、形式抜きで行われた。人によっては、自分の一生を左右しかねない問題で、指導を受けているのである。その場限りの感情論で、納得のいかない指導をしていては、人生を大きく狂わせてしまう。だから戸田は、絶えず妙法を根幹に、揺るぎない信心の立場から、真剣勝負で臨んだ。
 「心配することなんか、少しもない。信心で、自分の宿命を大きく開いていくんだ。私が、じっと見ていてあげる。決して焦つてはなりませんぞ」
 彼は、厳しい口調で言った。
 政子は、深く頷いて納得した。
 戸田は、政子の手を取って、優しい父のように諭した。
 「元気になるんだよ。卑屈になっては、いかん。那須で、大いに頑張りなさい。信心でね」
 彼女は、いつか涙ぐんでいた。
 夜は、すっかり明けた。
 列車は、定刻六時半に発車した。清原の振るハンカチに応え、増田姉妹が、プラットホームで、いつまでも手を振っていた。
 列車は、のろのろと走っていた。睡眠不足のためか、皆は、たちまち気持ちよく眠り始めた。戸田は、仁丹を、むやみにポリポリとかんでいた。そして、窓外の広い原野を眺めていた。
 彼方には、幾重にも重なる山々の峰がそびえていた。
 彼は、厳しい表情を崩すことなく、窓外の景色に、じっと目を向け、深い思いにふけっていた。
 ″ここに見える現実の山々は、どんなに遠く険しかろうと、歩けば峰を極めることはできる。この足を、一歩一歩、弛まず運びさえするなら、どんなに高い山でも、いつかは必ず越えることができる。これは間違いない。しかし、広宣流布の幾山河は、いったい、どこにあるのか。いつ見えるのか……″
 戸田は、地方指導の第一歩を踏み出した。その道は、謹かなる山河に、続いているように思えた。
 一瞬、空漠の思いに駆られ、外界の山々と己心の山々とが、重なり合っていった。
 ″広布の幾山河。それこそ、十重二十重の山であるにちがいない。ただ、足を運べば、越すことができる、といった山でないことは確かだ。それは、魔との壮絶な戦いであるにちがいない。影も、姿も見せぬ魔との戦い! 所詮、広宣流布の幾山河は、底知れぬ宇宙に広がり、はびこる魔との戦いであろうか……″
 彼は、ここまで思いたどった。そして、日蓮大聖人の御姿を、一人懐かしく思い浮かべていた。静かに唱題しながら、列車の心地よい振動に身を任せた。
13  列車は、西那須野駅構内に入った。そこで東北本線に乗り換え、そして小山駅に着いて、今度は両毛線に乗り換えた。
 桐生駅には、二、三人の顔見知りの同志が出迎えていた。
 一行は、この地方都市の繁華街にある、古くからの信徒の家に案内された。宮田という姓である。疎開した学会員の山田や、野口や、鬼頭たちは、戦時中、灯火管制下にあっても、座談会を、折々、開いていた。なんとか信心の火を絶やさず、守ってきたのである。
 戸田は、宮田宅で、さっそく勤行を始めた。この地には、日蓮正宗の寺院もあったが、驚いたことに、経文の読めない信徒が大部分であった。
 小憩し、座談会場になっている、最近、信心を始めたという水田宅へ赴いた。
 戸田は、道々、しきりと三島由造に話していた。
 「ここの信心は濁っているな。すっきりさせなければ、いずれ大変なことになるだろう。三島君、ひとつ、せっせと通って、厳しく指導してやってくれたまえ」
 「はい!」
 三島は答えた。
 すると戸田は、駄目押しするように、強い口調で言った。
 「しかし、骨が折れるぞ!」
 三島は、この時、何も気づかずにいた。だが、この方面の信心が軌道に乗るまでには、事実、数年の歳月が必要であった。
 座談会には、十人の人が集まっていた。そのうち、未入会の参加者は、一人だけであった。
 戸田は、一人ひとりに、和やかに話しかけた。おのおのの生活状態を聞き、懇切な指導をしていった。そして、日蓮大聖人の仏法の峻厳さと、慈悲の深さを説いた。
 最後に戸田は、広宣流布への並々ならぬ決意を話って、話を結んだ。
 「広宣流布は、戸田がやる。誰にも渡さん。みんな、しっかりついて来なさい。必ず無量の福運を積むことができるんですよ」
 未入会の一人は、信心をすることになった。
 地方指導を終え、桐生を後にした一行の心は、晴れ晴れとしていた。
 帰りの列車は、立錐の余地もないほどの混みようであり、身動きもできなかった。
 戦後第一回の地方指導は、手探りにも似た状態でスタートしたが、広宣流布の新たな突破口を開いたのである。
 戸田の胸は、深い感慨に満たされていた。それは、いかなる山河も、勇気をもって歩みを運ぶならば、必ず踏破することができるという確信であった。弟子たちも、その確信を深めたのである。

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