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日蓮大聖人・池田大作

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占領  

小説「人間革命」1-2巻 (池田大作全集第144巻)

前後
5  国中は、虚脱の底に沈んでいた。巷には、復員姿の青年たちが、あふれでいた。国民の大部分は、餓死を免れるために、食糧の獲得に狂奔していた。
 この時、戸田城聖は、着々と己の足場を固めてたのである。そして、国の遠い将来に、瞬きもせず目を向けていた。
 ダグラス・マッカーサーの、日本の非軍事化政策は、敏速に実施されていった。日本軍の陸・海軍の武装解除は、速い外地は別として、内地部隊約四百万の復員は、十月から十一月にかけて、ほぼ完了してしまった。こうして、予想以上にスムーズに、無血占領は成功したのである。
 八月十七日、東久邇内閣が発足した。この内閣は、やがて「一億総懺悔」という、全く国民の感情を無視したスローガンを掲げた。こんな無意味な言葉で、荒廃した民心を収拾しようとしたのである。
 多くの国民は憤激した。
 ″何が総懺悔だ。敗戦に導いた指導者たちこそ、国民のまえに懺悔し、謝罪すべきではないか……″
 確かに国民は、初めての敗戦の衝撃で、全く自信を失っていた。人心は動揺し、浮薄で無定見な言動が、華やかにもてはやされては消えていった。
 皇族を首班にした東久邇内閣は、天皇の名において軍隊をなだめ、武装解除を促進するには役立ったかもしれない。だが、国民大衆の困窮した生活再建には、ほとんど手を打つことを忘れていた。いや、忘れていたというより、なす術もなかったのかもしれない。そして、ただひたすらに、天皇制の護持に汲々とし、旧体制の維持に没頭していた。
 餓死線上に浮沈する、数千万人の人びとの日々の生活については、第二義的な考慮を払うにすぎなかった。
 降伏文書の調印は、九月二日、東京湾上で終わった。九月四日には、第八十八回臨時帝国議会が召集され、翌五日に、ポツダム宣言受諾の詔書に従うという、「承詔必謹決議」が満場一致で議決された。
 マッカーサーの占領政策は、間接統治という方式をとっていた。日本の行政、立法、司法の全権を、連合国軍最高司令官のもとに従属させる方式である。そして、政府に対する指令というかたちで、非軍事化政策から民主化政策へと進ませていった。
 占領軍の直接統治を避け得たのは、日本にとって幸運であったが、実は危機一髪のところだったのである。
 アメリカは、ドイツで行ったように、軍政を日本本土全域に施行する布告を、九月三日に発表する予定であった。軍政ばかりでなく、裁判も、一切、軍事裁判所で行う予定であったし、通貨も、日本紙幣と同等のものとして使用できる七種類の軍票が用意されていた。
 前日の夜、これらを知って、日本政府は慌てた。岡崎終戦連絡事務局長や重光外相が奔走し、ようやく直接統治でなく、間接統治とすることに変わったのである。アメリカでも、間接統治を一方式として、考えていたようではあった。
 結局、占領軍のもとに日本政府が存続する、という二重構造になった。そこで支配系統の混乱は避けられ、国民は、ひとまず日本政府の支配下に置かれるかたちとなった。この二重構造のもと、「敗戦」を「終戦」と言い換え、「占領軍」を「進駐軍」と呼んで、国民を刺激することを避けたのである。
 しかし、東久邇内閣の限界は、間もなくやって来た。
 GHQ(連合国軍総司令部)は、九月十日、マッカーサー元帥の名で、日本管理方針を声明した。翌十一日には、東条以下三十九人を、戦争犯罪容疑者として逮捕した。以来、戦犯容疑者の逮捕は、随時続行されていったのである。
 天皇の戦犯問題に関しては、占領軍は不気味なほど沈黙を守っていた。日本政府は、天皇の戦争責任について、焦慮していた。
 政府が、内外の声に不安を感じてきた、まさに、そのころ、天皇とマッカーサーとの会見が行われることになったのである。
 九月二十七日、天皇は、赤坂のアメリカ大使館に、マッカーサーを訪ねた。マッカーサーは、天皇とその通訳だけを迎賓室に招き入れた。彼が天皇と、部屋の中央で並んで立つと、カメラマンが三回、フラッシュをたいた。そしてマッカーサーは、暖炉の前のソファーに、天皇を案内した。
 後年、マッカーサーは、天皇の口から次のような言葉が述べられたのを聞き、少なからず驚いたことを記している。
 「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」
 マッカーサーは、ソ連や英国が提出した戦犯リストには、天皇がその第一号になっていたことを、よく知っていた。そして、戦後統治のうえから、天皇の扱いをどうするかを考えていた。しかし、天皇の、この発言に、マッカーサーは、深い感動を覚えたというのである。
 マッカーサーは言った。
 「いつでも、どんな相談でもしてください」
 当時の日本の国民性を、マッカーサーは知っていた。彼は、英国の強硬な主張、見解に傾きかけていたワシントン首脳部に、軽率な言動をせぬよう、警告していた。
 ″もし、天皇を裁判にかければ、少なくとも百万の軍隊が必要になるだろう″
 マッカーサーと天皇が、並んで写った写真と会見報道の記事は、二十八日付朝刊の一面を飾るはずだった。しかし、情報局が制限を加えたために写真は掲載されず、会見の報道記事は、一面トップではあったが、極めて小さく、当たり障りのない内容にとどまっていた。
 GHQが、この措置について外務省に抗議したため、翌二十九日の一面に写真が掲載された。そこには、軍服姿で腰に手を当てた長身の元帥と並んで、モーニングに身を包んだ直立不動の小柄な天皇が、対照的に写っていた。これを見て慌てた日本政府は、写真を掲載した新聞を発売禁止処分に付した。ところがGHQは、手厳しく処分の撤回を命じてきた。日本政府の面白は、丸つぶれになった。
 日本の間接統治が決まると、東久邇内閣は、何を思ったか、まず近衛師団を皇居を守護する禁衛府として残そうとした。さらに憲兵隊を残して、正規将校を編入して治安を守ろうとした。そして、軍人を警察官に転用しようと考えた。だが、そのたびにGHQから、禁止されてしまったのである。
6  このように政府は、先の写真事件以来、矢継ぎ早に出される「民主化」の指令を、理解するのに戸惑っていた。
 九月二十六日、一人の哲学者が獄死した。それは、自由主義の思想家・三木清である。
 彼は、友人の共産党員をかくまったという理由で、治安維持法により、豊多摩刑務所に投獄されていた。
 疥癬で悶え苦しんだとの一哲学者の死によって、なお多数の思想犯が獄中にあることが知らされた。軍国主義が崩壊したにもかかわらず、依然として、治安維持法が有効であったことに、世間は、あらためて気がついたのである。
 山崎内相は、外国特派員たちに対し、当然のことのように言った。
 「思想取締の秘密警察は、現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は、容赦なく逮捕する……政府形体の変革、とくに、天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕される」
 外国特派員は、唖然とした。
 今日から見ると、まことに奇怪至極な問答が、大真面目に行われたのである。そして、その詳報は、占領軍機関紙「スターズ・アンド・ストライプス」に掲載された。
 武装解除については、全面的に協力した日本政府も、それ以外のことは、すべて旧体制の復活を夢見ていたのである。天皇の戦争責任が、世界的な関心の的になっている時代に、彼らは、天皇制統治機構の維持に全力を注いでいたのだ。
 これほどの見当違いが、政府最高首脳によってなされていたのだった。時代の潮流を知らず、先見の明もない国家的指導者の愚劣な姿が、そこにはあった。
 十月四日、日本政府に対し、政治的自由、市民的自由、宗教的自由に関する制限の撤廃と、十日までに政治犯、思想犯を釈放することを指令した。これで、治安維持法の廃止、共産党の合法化がなされなければならなくなった。
 さらにGHQは、内相以下、全国警察首脳部の罷免と、特別高等警察の廃止を命じてきたのである。
 「総懺悔内閣」といわれた東久邇内閣は、この指令を行えば、国内の治安維持に責任がもてぬという、全く無責任極まる理由をもって、翌五日、総辞職してしまった。組閣以来、五十余日の命であった。
 この政変を契機として、いよいよ戦後の本格的な新しい変革が始まったのである。
 十月九日に、幣原内閣が成立した。十五日に、治安維持法は廃止された。そして、保護観察下の者も含め、政治犯約三千人が釈放されたのである。
 戸田城聖は、治安維持法廃止の十月十五日を境として、本当の意味で青天白日の身に戻ったわけである。しかし、そのことよりも彼を喜ばせたことがあった。それは、4日に発表された総司令部の覚書の一項に、信教の自由を指令してあったことである。
 信教の自由は、宗教がいかなる政治権力の拘束も庇護も受けてはならないと規定されて、初めて完壁なものとなる。宗教そのものの勝劣、浅深は、宗教の広場で決められるべきであって、そこに、いさかも権力が介入してはならない。真に力のある宗教は、信教の自由を欲し、力のない宗教は、権力と結託しようとする
 広宣流布は、信教の完全な自由のもとでなければ、達成は困難である――戸田は、かねてから、そう考えていた。
 今、その自由の日が訪れた。日蓮大聖人が御在世当時以来七百年、このような自由の時代は、ただの一度もなかった。
 しかし、この信教の自由も、日本国民の声が、これを実現する力となったのではなかった。全く、他国の司令官を通しての指令によるものであった。これこそ、梵天、帝釈の御計らいというべきであったろう。
 戸田は、事務所への道々、美しく澄んだ秋空を仰ぎながら、ひそかにつぶやいた。
 「梵天君、なかなかやるじゃないか」
 彼は、大きく息を吸った。これから先の彼の活動を妨げる力を、もはや国家権力は完全に失った
 さわやかな秋の日差しに、舗道を行く彼の足取りは軽やかであった。思いきり大きく手を振り回してみる。あの恐るべき栄養失調症から、健康がめきめき回復してきたことを、彼は感じた。
 「今度こそ、自由なんだ。本当に時が来た。今こそ、なすべきことをなさねばならぬ。必ずや、日本の不幸な民衆は救われるのだ。いな、絶対に救わねばならぬ」
 彼は、心につぶやき続けた。わが身の自由は、そのまま広宣流布への宗教活動の自由に通じる。自身の残された生涯が、そのためにあることを、彼は深く自覚していた。握り締めた手は、いつしか、じっとりと汗ばんでいた。
 この日、解放感を味わった、多数の無実の政治犯、思想犯があった。だが、彼ほど歓喜を深く覚えた者は、なかったにちがいない。
 戸田城聖は、誰よりも信教の自由を希求していた。その意義の大きさを、彼ほど自らの体験によって、よく知っている者はなかった。彼の歓喜は、それが全民衆に、どれほど多くの幸福をもたらすことになるかを、予見していたところから発していた。
 彼は、珍しく口髭を、しきりとなでながら歩いていた。出獄後三カ月余りたって、どうやら口髭は、二年前の状態に戻っていた。この感触は、二年の苦難が、ようやく過去のものとなったことを、文字通り肌で強く感じさせたのである。
 「ひとまず、これでいい……」
 彼は、独り言を言い、大きく胸を膨らませた。だが一方、虚脱し、不安におののいている民衆の心を思う時、自らの使命を強く感じて、いたたまれぬ焦燥に駆られるのであった。
 敗戦という未曾有の困難に処するにあたって、日本政府の指導者たちは、あまりにもだらしなかった。虚脱の度合いは、民衆よりも、むしろ指導者自身の方が大きかった。占領軍でもいなかったら、おそらく全国各所に暴動が起きていたにちがいない。
 今、民衆は、反抗すべき対象すら失ってしまっていた。無力極まる日本政府を相手にしても、米一俵出てくるはずもない。占領軍への反抗は、終わったばかりの戦争の再発にしかならない。はけ口のない不満を、民衆は、いやでも毎日、味わわねばならなかった。
 異常なほどの失意と絶望が、もはや日常的なものになってしまっていた。
 戸田城聖は、このような暗い底流が、八千万の国民の心に流れていることを知っていた。
 彼の鋭敏な心中には、人知れずうずくものがあった。
 道行く人びとの顔を、子細に眺めながら、彼は、心で呼びかけたい衝動に駆られた。
 ″待て、待て、皆さん……あなた方が悪いのでは決してない。……所詮は、誤れる宗教の害毒が、積もり積もって、この結果を招いたにすぎないのですよ。……と言ったところで、今、皆さんには、わかるまい。情けないが、わからない″
 彼は、危うく一人の若者とぶつかりそうになった。大きな包みを抱えた婦人が、彼の脇腹に包みぶつけて行った。
 戸田は、なおも思いに沈みながら、静かに足を運んでいった
 ″これが、一国の謗法の恐ろしさなんです。七百年前、日蓮大聖人が明らかにおっしゃっている。だが、誰も信用しなかった。信仰しなければならない時が、今、やっと来たところです……″
 彼は、誰かと語るように、自らの心に、なおも話しかけた。
 ″……そうなんだ、皆さん、私は知っている。間違いなく知っている。私は皆さんに、それを、今度こそは徹底してわからせるために、どんな苦労をしても生きていきますよ。安心なさい。
 ……差し当たってのことですか。
 ――まったく、どうにもならんが、梵天君が、応急処置くらいはできそうですよ。だって、それが彼の役目というものです……″
7  戸田城聖の心に、梵天として映ったマッカーサーは、極めて仕事熱心な人物であったようだ。
 彼は、職務に関係ない日本人とは会わなかったし、アメリカ人であっても、重要な訪問者か、側近にいる特定の人物以外とは、あまり会おうとしなかった。
 彼は、自分の任務遂行に必要のない場所には、出かけることもなかった。
 マッカーサーは、一九四五年(昭和二十年)八月の厚木到着から、五一年(同二十六年)四月に、朝鮮戦争(韓国戦争)をめぐるホワイトハウスとの対立で、トルーマン大統領から最高司令官を解任されるまでの五年八カ月の間、その任にあった。
 五〇年(同二十五年)六月に、朝鮮戦争が勃発する以前、彼が日本を離れたのは二回しかない。
 一回目は、四六年(同二十一年)七月、フィリピン独記念日の祝典に参加するためマニラを訪れたが、式典が終わると、すぐに日本に戻っている。二回目は、四八年(同二十三年)八月、大韓民国の建国宣言の式典に向かったが、彼は、その日のうちに帰ってきた。
 日本を離れないというより、彼は東京から離れることすらなく、各地で占領政策を実行している占領軍の駐屯地を視察することも、一度としてなかった。
 要するに、彼は、最高司令官としての彼の執務室以外には、どこへも出かけようとはしなかった。マッカーサーは、一日も休むことなく、公邸であるアメリカ大使館とGHQのある第一生命ビルとの間を往復していた。
 彼は、連合国軍最高司令官という、占領国・日本における、すべての権限を与えられた者として、日本を自分の理想とする国家に仕立て上げることを夢見て、そこにすべてを捧げようとしていたといえるだろう。
 もとより、戸田城聖がマッカーサーと会見する機会などは、全くなかった。また、マッカーサーも、当時、戸田城聖の名前など知る由もなかった。
 けれども戸田は、自身の心に影を落としたダグラス・マッカーサーに、不思議な親近感を覚えていた。それは、仏法の法理に照らして、戸田が、マッカーサーの歴史的な役割を、正確に見ていたからであろう。だが、むろん戸田を除いて、そのことは誰一人として気づくべくもなかった。
 戸田は、そのような不思議な人物に占領された、日本の運命に思いをいたした。
 ″ともあれ日本は、占領されてしまった。確かに、民族としてみれば、これ以上の悲劇はない。だが、人間の心も、修羅や畜生の生命に、占領されきっている場合がある。社会や国家が、悪魔の思想に占拠されている場合もある。その方が、より悲劇的なことだ。
 しかし、御書には、「大悪をこれば大善きたる」と仰せである。一国謗法の大悪は、日本に正法が興隆する前兆なのだ。この法理からすれば、やがて日本が、仏界に覆われていく日も、遠くはないだろう……″
 戸田は、一国の変毒為薬を心深く期していたのである。

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