Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第四節 吉田松陰  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
16  学問にせよ、スポーツにせよ、何かを習得しようと思えば、必ず指導者が必要になる。良き指導者がいれば上達も早いし、向上も著しい。だが、自分ひとりで習得しようとすれば、徒労も多く、またすぐに行き詰まってしまうものだ。同じように、人生をより有意義に、最大に価値あるものにしていくためには、生き方の根本的な価値観や人間観などを教えてくれる良き指導者、すなわち“人生の師”が必要である。
 彼の門下生にとって、松陰という存在は、学問上の指導者であったが、同時に、人生の師となっていた。彼らは、松陰と接し、その思想、生き方、人格にふれていくなかで、自らの意思と判断で、彼を師と定めたのである。他から、強制されたものでは決してない。
 一方、松陰も、来る者をこばむことなく、一人一人に内在する力を引き出すために献身し、人間としてなすべき道を身をもって教え示していった。そして、同じ目的――新しい日本の夜明けを開くという理想を共有しあい、ともに、その指標をめざした。
 それは、身分による上下の関係でもなく、利害や報酬に基づいた契約関係でもない。同じ目的を分かち合い、信頼を基盤とした最も自発的にして純粋な精神の融合といってよい。そのような「人」と「人」との絆のなかでのみ、真に人間ははぐくまれ、開花していくのである。
 そう考えると、良き師、偉大なる師に巡り会えた人生は、最高の人生といえるのではあるまいか。また、大きな理想というものは、師と弟子とがそれを共有し、弟子が師の遺志を継いでこそ、初めて成就していけるものである。
 師匠と弟子とは、針と糸の関係にもたとえられよう。師が道を開き、原理を示し、後に残った弟子たちが、その原理を応用、展開し、実現化していく。また、弟子は師匠を凌いでいかなくてはならない。一方、師は弟子たちのために一切をなげうち、捨て石となる覚悟でなくてはならない。
 私も若い青年たちの輝かしい未来の大道を開き、活躍の桧舞台をつくるためには、いかなる労苦もいとうまい、勇んで犠牲にもなろう、それが自分の責務であると、いつも心に誓っている。

1
16