Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第三節 ナイチンゲール  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

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12  使命を自覚した進歩、前進の人生
 彼女の不動の原点――それは、あのクリミア戦争のさなか、十分な看護を受けることなく苦痛と孤独のなかで死亡した兵士たちの姿であったようである。そして戦死した者以上に病死した者が多かったという悲しい事実であった。悲劇の大半は、軍の衛生組織の不備に起因していることが判明していながら何の手も打たれず放置されたままである。それを思えば、彼女にとってはクリミア戦争の終結こそが戦いの始まりであり、限りなき改革と進歩の始まりであった。彼女の胸中には、こうした不動の信念が脈打っていた。
 このころのナイチンゲールの心情をうつす日記の一節に「私は殺された人々の祭壇の前に立っている。生きている限り、その原因を究明するために闘う」(エルスペス・ハクスレー、新治弟三・嶋勝次共訳『ナイチンゲールの生涯』メヂカルフレンド社)とある。
 疲れ果てた心身にむち打って、彼女はふたたび敢然と新たな戦いを始めたのである。
 彼女は、経験と調査の裏づけに基づいて、陸軍の衛生状態の改革、近代看護法の確立、病院の建築や管理の改良等の大事業に携わっていった。こうした事業の推進のかげには、ビクトリア女王の理解をはじめ、彼女の優れた献身的な精神に共鳴した人たちの応援があったといわれている。いつしか彼女は、実地の行動のなかで境涯を深め、人々が彼女に協力せずにはおれないほどの風格さえ身につけていたのであろう。
 周囲を変えるためにはまず自らが成長すること――「人生の達人」ともいえる彼女は、この大事な原理を自然のうちに実行していた。五十三歳の時の「書簡」を見ると、「私たち女性の中には、自分の心や性格を《日々の生活》の中で改善していこうと真剣に考えるような人はごくわずかしかいません」(湯槙ます監修・薄井坦子編訳者代表『ナイチンゲール著作集』3所収、現代社、以下同じ)とある。そして「しかも、自分の看護のあり方を改善していくには、これが絶対必要になってくるのです」と述べている。
13  いつの時代にあっても、人のうわさ話など無意味な語らいに時間を費やしたり、虚栄を追い求める人は多いが、真摯に自己を見つめようという人は少ない。
 しかし、すべては、自己自身の変革から始まる。生活も、事業も、教育も、政治も、また経済も、科学も、一切の原点は人間であり、自己自身の生命の変革こそがすべての起点となる。私どもが「人間革命」こそ一切の基盤とならねばならないとするゆえんがここにある。
 私は、百年前の一女性が、自らそれを達観したことに対し、大きな驚きと感嘆とを覚える。
 彼女は書簡の中で「私たち看護するものにとって、看護とは、私たちが年ごと月ごと週ごとに《進歩》しつづけていないかぎりは、まさに《退歩》しているといえる、そういうものなのです」と述べている。
 また彼女は「(不平と高慢と我欲に固まった、度し難い人間、《そういう》人間だけには《なりたくない》ものです。)そして演劇の合唱隊みたいに、二分おきに『進め、進め』と大声で歌いながら一歩も足を進めないような人間にだけはならないようにしようではありませんか」と呼びかけている。
 彼女は、この言葉どおりの、進歩、前進の人生を全うした女性であった。
14  一八六〇年に、彼女は「ナイチンゲール看護婦学校」を創設した。体をこわしていた彼女自身は、ついに一度も教鞭をとることはなかったが、彼女の熱意は教師や学生の心を激しくたたき、助言を求め、相談に来る人はあとをたたなかったという。
 学生たちが彼女を慕う気持ちは卒業の後も続いた。行き詰まり悩んだとき、卒業生たちは、世界のいずこの地からも彼女のもとにやってきた。ナイチンゲールは病弱を押し、忙しい仕事の合間をぬって彼女たちと会い、一生懸命に激励をした。そしてふたたび元気になった卒業生たちは、自信を取り戻して彼女のもとからまた世界へと出発していった。
 彼女が七十三歳の時に書いたある論文の中で「《われわれ》がみんな死んでしまったとき、自ら厳しい実践の中で、看護の改革を組織的に行なう苦しみと喜びを知り、われわれが行なったものをはるかにこえて導いていく指導者が現われることを希望する!」(同著作集2)と、後世の人に対し、万感の思いを語っている。
 こうしてフローレンス・ナイチンゲールは、輝く功績を残し、九十歳で眠るがごとき安らかな最期を迎えている。
 ナイチンゲールの残した近代的看護の伝統は今なお生きている。彼女の残した偉大な業績は、死後もなお進歩と前進を続けているのである。真に偉大な仕事は、その人の死後もなお力強い進歩を続ける――このことを深く銘記したいものである。

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