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日蓮大聖人・池田大作

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第三節 『三国志』  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

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32  諸葛孔明の生涯とその魂が、最後の戦場、五丈原をバックにして見事に表現された詩である。病あつき孔明。蜀軍の旗に光はない。孔明の胸に去来するものは、志半ばに死んだ劉備の自分への深い信頼と漢の国の命運である。……この詩には、まさに間もなく没しゆかんとする孔明の悲痛なまでの想いが込められている。
 ところで、昭和二十八年の新年、私は、恩師にこの「星落秋風五丈原」の歌を披露したことがある。これは土井晩翠の詩に曲がつけられていた歌であるが、恩師はじっと耳を傾けられ、聞くうちに眼鏡をはずされ、やがてハンカチを眼にあてられた。そして「いい歌だ。もう一度、歌って聞かせてくれないか」と、前後六回も聞かれ、「君たちにこの歌の本当の精神がわかるか」と尋ねられた。
 そして戸田先生は、志ならず途上で死ななければならなかった孔明の心情を、わがことのように語られた。「孔明は、明日をも知れぬ断崖絶壁の命となっている。味方の軍勢は負け戦の最中だ。このような瀬戸際に立った時、人はなにをどう考えるか。悔恨などという生やさしいものではない。まして、諦めることができるものではない……この孔明の一念を思うと、あまりにもかわいそうであり、不覚にも涙を流してしまうのだ」と。
 諸葛孔明は、文字どおり壮烈な五十四歳の人生の幕を、五丈原で閉じる。志半ばで逝かなければならなかった彼の無念の心中は察するに余りある。しかし、臨終を迎えんとするその刹那まで、孔明の一念の炎は止むことがなかった。その現当を貫く強靭な一念は、“死せる孔明、生ける仲達を走らす”という妙なる現実を生みだし、結果として蜀の国を守ったのである。ちなみに魏によって蜀が滅ぼされたのは、この孔明死後三十年も経過したあとだった。こうしてみると、晩年の孔明の北征は、負け戦ではあったが、彼の鬼神も哭くがごとき壮烈な至誠の一念は、蜀の危機を救うとともに、その名を千載の劫まで残すこととなったのである。
 諸葛孔明――劉備玄徳の知遇を得た二十七歳より、五丈原に没した五十四歳までの波瀾万丈の二十七年間の、一貫して変わらぬその潔き“生死”は『三国志』中の人物のなかで、不滅の光彩を今なお放っている。

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