Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二節 魂輝く青春  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
26  羅什は、この長くも厳しき時代を乗り越え、長安の都へようやくたどりつく。羅什を迎え入れようとした後秦の王・姚興が後涼軍を打ち破ったからである。姚興の羅什を招致せんとする願いは父・姚萇の遺志でもあり、親子二代にわたる悲願でもあった。弘始三年(四〇一年)の十二月、暮れも押し詰まった冬の日、手厚い出迎えのなか首都・長安に入ったのであった。実に師・須利耶蘇摩から法華経の原典を授けられて以来、約四十年の歳月が流れていた。
 彼は蓄えに蓄えた力を一気に爆発させるかのように、猛然たる勢いで直ちに翻訳作業を開始した。着くやいなや、十二月二十六日から始められた「坐禅三昧経」の翻訳などは早くも翌弘始四年正月に訳出されたという。
 彼は長安に入ってから、入滅まで、八年とも十二年ともいわれる歳月のなかで、実に三百数十巻ともいわれる経典を翻訳した。単純計算しても一カ月に二巻ないし三巻というスピードである。しかもそれは翻訳という言葉からうけるイメージとは違った、八百人から二千人の多くの若き俊英たちを前に、講義をしながら進めていくという生き生きとした仏教研学運動であった。この事実に、私は驚嘆の思いを禁じえない。そして、ライフ・ワークともいえる「法華経」の見事なる漢訳を完成させたのである。
 少年時代に生命に刻んだ師の言葉を、四十余年の歳月をかけて見事に実現させ、誓いを果たしたのであった。時に羅什は五十七歳であったともいわれている。それは、人生の最終章における勝利の大逆転劇と私はみたい。
27  その羅什にも、素晴らしき弟子たちがいた。羅什門下の俊英の活躍は、その後の中国における仏教の興隆に多大な功績を残している。その中のひとり僧肇は、まだ十代のころに(一説に十九歳ともいわれる)、当時まだ後涼国にいて最も苦境にあった羅什を、千里をも遠しとせずにわざわざ隣国から訪ねて、最初の弟子となった。実に羅什と僧肇の師弟の絆は、不遇の時代から始まったのである。
 羅什はすでに姑臧において弟子・僧肇とともに仏典の漢訳の準備を開始したとも考えられる。その時、長安入りを果たすことなく無為の死をも想定せざるをえない状況にあった羅什にとってみれば、遺言のつもりで弟子に話したのであろうか。
 以来、僧肇は、羅什が長安に入り生涯を閉じるまでの約八年間その若き生命をもって、すべて師・羅什三蔵の偉業を助けるために燃焼し尽くした。これこそ弟子の道といってよい。
 彼は労咳(肺病)のため、師・羅什の亡きあと、そのあとを追うように早逝している。三十一歳とも三十七歳(あるいは四十一歳)ともいわれる短い人生ではあったが、僧肇の生涯は、羅什三蔵のためにこそあったといえよう。
 僧肇の著作としては、「註維摩経」「般若無知論」「不真空論」「物不遷論」「涅槃無名論」などがあり、それらは後に「肇論」としてまとめられ、中国の仏教史上に大きい影響を与えた。また「百論序」や「維摩詰経序」など、羅什三蔵が訳出した仏典の序文を書き、羅什とその師・須利耶蘇摩との美しきエピソードも、この孫弟子にあたる僧肇が記録したものである。
 このように仏法は、時代を超え、国境を超え、民族を超えて、この「師弟」という崇高なる絆のなかに、脈々と受け継がれていった。志と使命を同じくする師弟の絆――その峻厳なる実践こそが未聞の大事業を成就せしめた核であったのである。

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