Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二節 魂輝く青春  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
25  青年羅什の名声は中国にも及び、天竺、西域、漢土に並ぶものなき大乗論師となり、いよいよ東方の中国へ向かう「時」の到来を待つのみとなった。しかし、彼の前には厳しき逆境の風雨が待っていた。
 羅什の高名を聞いて、何とか自国に迎えたいと願った前秦の王・符堅が将軍呂光を派遣し亀茲国を攻めさせたのである。亀茲の王城は陥落した。だが呂光将軍は仏教に暗く、羅什を年端もいかない凡人としかみなかったようである。羅什を堕落させ、亀茲国の仏教界から引き離そうと、呂光は戒を犯させて酒を飲ませ、妻帯させたりした。
 しかも中国への帰途、不幸にして符堅崩御の報をうけた呂光が河西の涼州地方に独立し、後涼国を建てたために、以後十余年も羅什は、姑臧の地で、雌伏の日々を送らねばならなかった。
 三十代後半から五十代、人生のなかで最も仕事のできる年代に、めざす「長安の都」を目前にして、半ば囚われの身であった羅什の心中はいかばかりであったろうか。
 しかし羅什は、決してくさらなかった。否、逆境の真っただ中にあって、いつか必ず仏教の正統な流れを中国の地に伝えようとの一念に燃え、黙々と、また黙々と、自己の研鑚と精進を貫き通した。
 そして中国の言葉を覚え、流麗な漢詩も創れるまでになっていった。これがどれほど後の翻訳に役立ったか計り知れない。それまで中国に渡った訳経僧のほとんどが高僧で、王侯貴族や知識人社会には迎えられたが、中国民衆のなかに入って一緒に生活した者は稀であったといわれる。そのなかでひとり荒くれ男たちにまじって戦乱のなかを生きぬいた羅什の翻訳であったればこそ、中国の民の心のひだまでしみいっていき、仏教の真髄を伝えることができたともいえよう。
 人生には運命の試練が必ずある。順調のみの人生のなかに真の勝利は生まれないし、成功もない。逆境を、また運命の試練をどう乗り越えて、大成していくかが人生といえる。
26  羅什は、この長くも厳しき時代を乗り越え、長安の都へようやくたどりつく。羅什を迎え入れようとした後秦の王・姚興が後涼軍を打ち破ったからである。姚興の羅什を招致せんとする願いは父・姚萇の遺志でもあり、親子二代にわたる悲願でもあった。弘始三年(四〇一年)の十二月、暮れも押し詰まった冬の日、手厚い出迎えのなか首都・長安に入ったのであった。実に師・須利耶蘇摩から法華経の原典を授けられて以来、約四十年の歳月が流れていた。
 彼は蓄えに蓄えた力を一気に爆発させるかのように、猛然たる勢いで直ちに翻訳作業を開始した。着くやいなや、十二月二十六日から始められた「坐禅三昧経」の翻訳などは早くも翌弘始四年正月に訳出されたという。
 彼は長安に入ってから、入滅まで、八年とも十二年ともいわれる歳月のなかで、実に三百数十巻ともいわれる経典を翻訳した。単純計算しても一カ月に二巻ないし三巻というスピードである。しかもそれは翻訳という言葉からうけるイメージとは違った、八百人から二千人の多くの若き俊英たちを前に、講義をしながら進めていくという生き生きとした仏教研学運動であった。この事実に、私は驚嘆の思いを禁じえない。そして、ライフ・ワークともいえる「法華経」の見事なる漢訳を完成させたのである。
 少年時代に生命に刻んだ師の言葉を、四十余年の歳月をかけて見事に実現させ、誓いを果たしたのであった。時に羅什は五十七歳であったともいわれている。それは、人生の最終章における勝利の大逆転劇と私はみたい。
27  その羅什にも、素晴らしき弟子たちがいた。羅什門下の俊英の活躍は、その後の中国における仏教の興隆に多大な功績を残している。その中のひとり僧肇は、まだ十代のころに(一説に十九歳ともいわれる)、当時まだ後涼国にいて最も苦境にあった羅什を、千里をも遠しとせずにわざわざ隣国から訪ねて、最初の弟子となった。実に羅什と僧肇の師弟の絆は、不遇の時代から始まったのである。
 羅什はすでに姑臧において弟子・僧肇とともに仏典の漢訳の準備を開始したとも考えられる。その時、長安入りを果たすことなく無為の死をも想定せざるをえない状況にあった羅什にとってみれば、遺言のつもりで弟子に話したのであろうか。
 以来、僧肇は、羅什が長安に入り生涯を閉じるまでの約八年間その若き生命をもって、すべて師・羅什三蔵の偉業を助けるために燃焼し尽くした。これこそ弟子の道といってよい。
 彼は労咳(肺病)のため、師・羅什の亡きあと、そのあとを追うように早逝している。三十一歳とも三十七歳(あるいは四十一歳)ともいわれる短い人生ではあったが、僧肇の生涯は、羅什三蔵のためにこそあったといえよう。
 僧肇の著作としては、「註維摩経」「般若無知論」「不真空論」「物不遷論」「涅槃無名論」などがあり、それらは後に「肇論」としてまとめられ、中国の仏教史上に大きい影響を与えた。また「百論序」や「維摩詰経序」など、羅什三蔵が訳出した仏典の序文を書き、羅什とその師・須利耶蘇摩との美しきエピソードも、この孫弟子にあたる僧肇が記録したものである。
 このように仏法は、時代を超え、国境を超え、民族を超えて、この「師弟」という崇高なる絆のなかに、脈々と受け継がれていった。志と使命を同じくする師弟の絆――その峻厳なる実践こそが未聞の大事業を成就せしめた核であったのである。

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