Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一節 自己をつくり、自己に生きる  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
46  さてブルーノに対しては、二百六十一項目にわたる異端の嫌疑について審問が行われた。その背景には彼の人間観があったとされる。
 すなわち“人間は人間であって、決して人間以外のものではない”というのが彼の人間観であった。彼は徹底してキリストを「神」としてではなく、「人間」としてみたのである。ジョン・ドレイパーが『宗教と科学の闘争史』(平田寛訳、社会思想社)で指摘しているように、ブルーノは“人間の信仰”のために“みせかけの信仰”と戦い、“道徳も信義もない正統派”と戦ったのである。
 そしてブルーノは火あぶりの刑を宣告されるさい、裁判官に「思うに、貴下が私に宣告をくだすのは、私がその宣告をうけるよりも、その恐怖は大きいであろう」(同前)と言い放ったという。そこには信念に生きぬく人間の生きざまと、必ずやその信念が後継されるという毅然たる確信がある。
 まさに先駆者の歴史は、光と闇、知と無知の戦いである。ブルーノはいかなる権力者、神学者たちの攻撃、迫害をも恐れなかった。彼は自己の信念と、人間の英知の光に生きぬき、殉じた不屈の生涯であった。
 歴史的偉業は、決して平坦な道程の上に出来上がったものではない。むしろ、迫害や苦難の悪気流のなかでこそ想像を絶する歴史と後世への奇跡ともいうべき記念碑が、建てられているともいえよう。
 かの若き時代のニーチェも『反時代的考察』で、こうした悪気流をこのように糾弾している。
 「鈍重な習慣が、卑小なものと低劣なものが世界の隅々を満たし、重苦しい地上の空気としてすべての偉大なものを取り巻いてたちこめ、偉大なものが不死に向かって行くべき道の行くてに立ちふさがって、妨害し、たぶらかし、息をつまらせ、むせかえらせる」(『ニーチェ全集』4〈小倉志祥訳〉所収、理想社)
47  歴史的な偉業を振り返るとき、常に私の胸に迫ってくるのは、苦難を自身の糧として人生を生きぬいた人間の生命の強靭さである。
 ブルーノに限らず、ある人間の勝利が、他者にとってもその実存に迫るような力を持つのは、自己の信念を貫き通してある地平に抜け出た時、それはすでに一個人の領域にとどまらず、生の普遍的な質にまで深化されたものとなるからではないだろうか。
 そして、人生にそうした決定的な勝利の瞬間が訪れることがあるとするならば、それは自己の全存在に猛然たる勢いで襲いかかり、圧倒しようとする苦難と全生命をもって格闘し、乗り越えようとする時に、すべてのものの持つ意味を新たにするような、創造がなされた瞬間ではなかろうか。
 その瞬間に、胸中に赫々たる太陽が昇りゆくように、歓喜がほとばしり、何人も打ち消すことのできぬ凱歌が奏でられるにちがいない。とするならば、どこまでも自己に徹し、自らの生命に生きぬく強靭な人格にあっては、苦難こそ新たなる創造へと跳躍しゆく飛躍台であるとすらいえるだろう。つまるところ、一個の人間の生涯の放つ光彩は、すべての卑小なものや低劣なものに抗して、いかに“不死の道”を歩みぬいたか――。その足跡によってさらに輝きを増していくにちがいない。

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