Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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5 二十一世紀の宗教運動  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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3  限定性を超克した「仏とは生命」の生命観
 池田 じつに大きな問題ですが。それに関連して私は、前に総長と「はたしてプーシキンの『エフゲニー・オネーギン』を書けるようなコンピューターが作れるのか」というテーマをめぐって、否定的に語り合ったことを思い起こします。
 その時の総長の言葉は、“世界は無限である。しかるにモデルというものは本質的に有限である。したがって、無限の構造を再現するような有限のモデルを作るのは不可能である”という、まことに論理的かつ明快なものでした。
 少々専門的になりますが、「有限」と「無限」ということについて、仏教の生命観、とりわけ時間・空間という有限性、限定性を同時に超克しゆく大乗仏教の生命観には、きわめて興味深い視座が説かれています。
 私の恩師は、第二次世界大戦中、軍国主義政府と戦い、苛酷な獄中生活を送るなか、妙法を唱え抜き、思索を重ね、二つの偉大な獄中体験をえました。その第一が先に触れた「仏とは生命なり」との会得でした。
 その導きの糸となったのが、法華経の開経である無量義経の一節だったのです。仏を賛嘆するその「偈」の最初のくだりを引用させていただきますと――
 「其(仏)の身は有に非ず亦た無に非ず
 因に非ず縁に非ず自他に非ず
 方に非ず円に非ず短長に非ず」(法蓮華12㌻)
 このように続き「……に非ず」がじつに34回も繰り返されています。その執拗なまで言表を拒絶されたあとに残された、あるいは立ち現れる「仏」とはいったい何なのか。恩師が獄中で会得したのが「仏とは生命なり」との達観であり、それが、創価学会の運動の原点となりました。
 その点はさておき、私が申し上げたいのは34回も繰り返される「……に非ず」が、徹底した「限定性の超克」であり「無限性の開示」であったということです。あらゆる角度からの「限定性」を超克しぬいたところに浮かび上がるホーリスティック(全包括的)な生命観――それは、総長のおっしゃる「無限」ということと、きわめて親近し、二重写しになってくるのです。
 その点をとらえて、仏教にも造詣の深い日本のある科学者(泉美治・大阪大学名誉教授)は「(=仏教は)科学と馴染み合える唯一ともいえる宗教」(『科学者が問う 来世はあるか』人文書院)とまでいっています。
 我が田に水を引くつもりはありませんが、そうした意味からも、科学と宗教との人間における共存・相補関係という文明論的課題に私どもも果敢に挑戦していきたいと思います。

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