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日蓮大聖人・池田大作

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1 家庭の揺らぎ  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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12  ”縁起”が示す家庭のもつ教育力の重要性
 サドーヴニチィ 池田博士、あなたは教育が手段であるか、それ自体が目的であるか、という問いを投げかけられています。この問題について、私もいろいろ考えてみました。すでに申し上げたとおり、教育は一面においては人格を育み、幸福と出世を約束するものであるといえます。社会も大学を批判的にみながらも、やはり教養ある人間を必要としています。一方、池田博士は人格を抑圧する教育システムについて憂慮されていましたが、私もそのご意見にはまったく賛成です。
 池田 新しい世紀を、どう平和と共生の方向へ向けていくか。その焦点はやはり教育です。教育改革は、日本でも最重要課題の一つです。どんな国であれ、教育こそ、国の未来を決する根本です。
 サドーヴニチィ 先日、私はモスクワ市の小・中校の教師との会合に出席しました。そこにはモスクワ市の学校から500人の教師が来ていました。その席で私は、教師という仕事について、我が国の教育、我々のめざす目的について語ったのです。その時に、私の頭にあったのは、池田博士と今ここで話題にしているようなことでした。
 池田 多忙を極める総長が、そうした教育のための真剣な活動をされていることもよく存じあげています。
 サドーヴニチィ 私は子どもの徳育という意味での教育と、知的発達の可能性について発言しました。最も感性が発達し人格が形成されるのは、5歳から15歳くらいの間であることをまず考えなければなりません。もっとも私は、子どもの人格教育はもっと早くから始めなければならないと考えていますが――。
 その会合では、(ロシアにおいて)子どもの人格教育のおよそ40―50%は家庭に責任がある、青年教育においては青年同士の啓発、つまり青年のリーダーから受ける教育の割合が20%、教師による教育は約30%、という数字があげられました。
 池田 そこで、家庭のもつ教育力というものが、なぜ重要なのか、もう一歩踏み込んで考察してみたいと思います。
 仏教の世界観の一つに“縁起”がありますが、互いに“因”となり“縁”となりながら“生起”している世界(リアリティー)が、もっとも凝結しているのが家庭にほかなりません。
 “縁起”の世界は、生きとし生けるものはもとより、山川草木に到るまで“因”となり“縁”となって無限に連なっていくわけですから、「関係」の無限性あるいは普遍性を、その特徴とします。仏教がしばしば、人類愛をも超えた宇宙的ヒューマニズムを体現しているとされるゆえんです。
 サドーヴニチィ 以前にも話されていた、モスクワ大学における池田博士の講演(「人間――大いなるコスモス」)の論点ですね。
 池田 ええ。それと同時に、“縁起”の世界は、「宿命」の有限性、個別性という側面をもつことを強調しておきたいと思います。日本人に生まれ、ロシア人に生まれるということも、男性に生まれ、女性に生まれるということも宿命です。有限性、個別性の世界です。そして、その宿命性をもっとも濃密に体現しているのが、家庭ではないでしょうか。なぜなら、どのような家庭に生を受けるかは自分では分からない、つまり誰も親を選ぶことはできないからです。家庭というコミュニティーを形成する決定的なところに、自分の意志や努力ではどうしようもない、宿命というファクターが介在してくるのです。
 そして、「関係」の無限性、普遍性は、「宿命」の有限性と表裏一体をなしており、さらにいえば、後者(有限性)を通してしか、前者(無限性、普遍性)の人類的、宇宙的ヒューマニズムもリアリティーももたないというのが、「縁起」観です。
 サドーヴニチィ 宇宙的ヒューマニズムを最も身近なものに具現化するというアプローチは、たしかに時代を先取りしているかもしれません。
 池田 話が抽象的になりましたが、隣人愛の困難をいうイワン・カラマーゾフの逆説は、まさにそのことを意味しています。
 「どうして自分の身近な者を愛することができるのか、僕にはどうしてもそれが理解できないのだよ。身近な者だからこそ、僕の考えでは、愛することができないので、愛することができるのは遠い者に限ると思うんだ」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』小沼文彦訳、筑摩書房)と。
 したがって、血縁という宿命的な絆で結ばれた、ある意味では逃れようのない、家庭という場での幼少時の人格形成が、とりわけ重要になってくると思います。そこで良き“原型”が形作られてこそ、長じて心広々とした、円満にして健全なる人格形成も可能となるでしょう。トインビー博士は、私との対談で、人格の「決定的な形成」がなされるのは5歳までで、なかでも、その時期の母親の影響の大切さを力説しておられました。
 この家庭の教育力が、今、危機に瀕しているといわれますが、総長のお考えをお聞かせ下さい。
 サドーヴニチィ 家庭の教育力は、両親がいかに人間として成長しつづけているかに象徴されるのではないでしょうか。家庭教育というと、子どもを親が教育すると考えるのが普通です。それはそうなのですが、私は、子どもが親から影響を受けるだけでなく、むしろ、親自身が子どもを育てることを通じて成長していく場合に、家族は絆を強め、安定すると思います。
 池田 まさに子どもは親自身の鏡です。
 サドーヴニチィ 子どもが親に与える影響は特別なものです。例えば夫婦喧嘩をしても、子どもがいることで、親として節度を自覚させられ、お互い譲り合って仲直りをする場合は多々あります(笑い)。
 自分の言い分だけに固執せず、家族という最も身近な人のために自制心を涵養することは、とりもなおさず円満で寛容な人格へと成長していくことでもあります。
 池田 大切なポイントと思います。だからこそ、私は、人間が人間と成るために不可欠の、かけがえのない場である家庭というコミュニティーが大切であると思います。とはいえ、かつての大家族制度に帰れといっているのではありません。時代の流れというものがあり、それは不可能でしょう。法律や制度も相対的なものです。時代により、国や民族により多種多様です。
 それでも今のような社会の住人になることが、はたして人間の幸せなのか、一度は問い直してみるべきではないでしょうか。両極化していえば、有り余るほどの物に囲まれながら「学び」からの逃走、「学び」へのシニシズム(冷笑主義)にとりつかれている子どもたちと、勉強したさにアフリカのサバンナを何時間もかけて学校に通い、帰宅してからは貴重な労働力として家事を手伝う子どもたちの目とでは、どちらが生き生きとしているか――私は、グローバリズムが抗しがたい流れであればあるほど、こうした原初の問いを手放してはならないと思います。
13  見直されるべき父親像、男性像
 サドーヴニチィ 教育と家庭を論じる際に一番難しいのは、社会が男性の理論で成り立っていることです。「男性社会」では、妻として、また母としての女性の生き方や家庭の在り方は種々論じられても、男性の責任と生き方を問い直すことは稀です。それはとりもなおさず、男性の価値観をものさしにしているからです。
 池田 家庭の教育力という問題は、グローバリズムの主たる担い手である男性にとって、とりわけ喫緊の課題でしょう。何が真の教育か、家庭の役割は、といった素朴な問いかけです。さらに、これは“猛烈社員”に偏向してきた日本特有のことかもしれませんが、オープンな家庭を単位とした地域のコミュニティー作りも大切です。そして、こうした意識変革、発想の転換は、当然、女性にも歓迎され、共有されてくると思います。
 グローバリズムが進み、家庭のゆらぎや崩壊という、人間が人間であることの根底を掘り崩すような事態が生じていることを見逃してはならないと思うのです。
 サドーヴニチィ 男性たちがどのような家庭像を描いているか、いかなる価値観を持っているか、また過去にはどうであったか、未来においてはいかに変化していくか。そして、その男性の価値観は何によって作られてきたのか。それを吟味する必要があるのではないでしょうか。夫、父親として男性の責任と役割、求められる姿については、これまで取り上げられ、論じられることが無かったように思われます。
 それでも男性は、「一家の主」でした。また今後も当分の間、あるいは未来永遠に「一家の柱」であり続けるだろうと推測されます。
 池田 どうしても男性の意識変革が焦点になりますね。本当に難しい時代です。
 サドーヴニチィ 家庭における男性の役割はもっと論じられるべき重要な問題なのです。このように申し上げるのは、男性の成長と、その家庭への責任を特に強調しておきたいと思うからです。
 男性がいかに在るべきかがこれまで問われないままにされてきたのは、男性は「男に生まれただけで優れた存在だ」という考え方が支配的だったことによると思われます。
 ピタゴラスが「善は、秩序と光と男性を創った。そして悪は、混沌と闇と女性を創った」と言いましたが、それから2500年を経た今も、この身勝手な男性の意識はそこからあまり成長していないといえば言い過ぎでしょうか。
 池田 日本のある霊長類学の権威(河合雅雄・京都大学名誉教授)は、父親の条件として*①*自分の属している集団を防衛すること、*②*集団の生活を維持するための経済活動をすること、*③*子どもの養育にあたること、の3つをあげています。(『サルから人への物語』小学館)
 注目すべきは、第3の子どもの養育、という点です。
 これに関しては、ゴリラやニホンザルのような他の霊長類の父親の方が、人間の父親よりも、よほど熱心であり積極的だというのです。こうした家庭における父親不在の現象は、とくに“職”と“住”が分離しがちであった工業化社会において顕著であった。おっしゃるとおり、父親像、男性像というものが見直される時期に来ていると思います。
 だからこそゲーテは、男性原理が支配的であった近代精神の行きづまりを巨視的に展望するなかで、男性的な自我の比類なき体現者であったファウストが盲目となり破滅していくのに対し、「永遠の女性」(『ゲーテ全集』2、大山定一訳、人文書院)をもって救済の手をさしのべているのでしょう。
 そうした意味もふまえ、私は、21世紀は「女性の世紀」であると訴え続けています。

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