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日蓮大聖人・池田大作

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「創立の月」と学会精神 わが使命は勝利! 大東京

2003.11.4 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
3  戸田先生は、一日に幾度となく、私を呼ばれて、暇さえあれば、信心のこと、人生のこと、将来の構想のことなど、様々な展望を語り、遺言されていた。
 不二の弟子にとって、師と共に、広宣流布の未来を語るひと時は、最高無上の幸福であった。語っても語っても、尽きることがなかった。
 しかし、先生は、この昭和三十二年の秋ごろから、学会本部におられる時も、二階の会長室には行かずに、一階の応接室のソファで身を横たえていることが多くなった。私は、衰えゆく師の身体に苦悩しながら、ご健康を懸命に祈りながら、師弟の対話の時間を宝としていった。
 本部総会から、一週間後の十一月十五日のことである。私は応接室で、種々ご指導をいただいた。師の目が鋭く光った。
 「ひとたび広宣流布の戦を起こしたならば、断じて勝たねばならない。戦いを起こして負けるのは、男として最大の恥である」
 その一言は、今もって耳朶を離れない。
4  戦いを起こした以上、負けるわけにはいかない。
 前進を阻もうとする、いかなる迫害も、謀略も、いっさい打ち破って、堂々と、勝ち進む以外にないのだ。
 一九七九年(昭和五十四年)、あの卑劣な宗門問題の渦中に、私は会長を辞任した。しかし、役職を辞めても、広宣流布の使命が終わるはずはない。
 私は、わが師の遺言を思い起こしながら、「断じて勝ってみせる!」と、ただ一人、堅固に、胸深く誓っていた。
 いよいよ好機到来し、私が“反転攻勢”への跳躍台としたのは、やはり東京の天地であった。そして、その決起の月は、意義も深き「創立の月」であったのだ。
 一九八一年(昭和五十六年)の十一月二日、創価大学の中央体育館には、わが立川と西多摩の同志が集っておられた。
 その二日前、創大生に対して、「歴史と人物を考察――迫害と人生」と題して講演した私の胸には、正義の闘魂が燃え盛っていた。
 嫉妬や讒言による迫害がなんだ! 卑劣な権力の迫害がなんだ!
 中国の大歴史家・司馬遷を見よ! インド独立の父ガンジーを見よ! フランスの文豪ユゴーを見よ! みな迫害、迫害、迫害だ。
 いわんや、仏法流布の正義ゆえの迫害である。これ以上の誉れがあろうか。
 私は決断した。この十一月、新しい太陽を断じて昇らせてみせると、わが心は炎の如く燃え上がるのであった。
 立川と西多摩の総会に駆けつけた私は、「仏法は勝負である」と指導したあと、扇を手に立ち上がった。
 同志の要望に応え、新出発の歌の指揮をとった。「鳴呼黎明は近づけり」(大阪高等学校全寮歌=作詞・沼間昌教)である。
  ♪鳴呼 黎明は近づけり
   鳴呼 黎明は近づけり孫中山
   起てよ我が友 自由の子……
 声高らかな歌が始まると、皆の胸の思いが一つにとけ合って、大会場に巨大な感情がうねり始めた。皆の顔に決意がみなぎっていた。断固として戦う決意であった。
 私は嬉しかった。本当に嬉しかった。私が再び広宣流布の雄渾の指揮をとる日を待っていてくれたのだ。
 「尊敬によってつくられた友情が真実で完全で永続的である」(『饗宴』上、中山昌樹訳、『ダンテ全集』5所収、新生堂)とは、迫害の人生を生きた、イタリアの詩聖ダンテの確信であった。
 さあ、新しい黎明の時だ。ここ数年の暗闇を打ち破り、新しい学会を、今再び創立する時が来たのだ!
 私は、東京の大地を勢いよく蹴って、関西、そして四国へと飛んだ。
 さらに、再び関西へ、中部へと「創立の月」を走り、翌十二月には、猛然と九州へ転戦していったのである。
5  日蓮大聖人が広宣流布の主戦場とされたのは、当時の日本の中心地・鎌倉であった。幕府の膝元である。今なら首都・東京に相当する。
 政権の中枢である鎌倉は、当時、決して安全地帯ではなかった。むしろ危険に満ちた場所でさえあった。讒言が飛び交い、陰謀が練られ、敵の監視の目も光っていた。しかし、それでも、いな、だからこそ、大聖人は、鎌倉を舞台として、宗教の正邪を決する言論戦を展開されたのである。ここにこそ、広宣流布の勝負の厳しき急所がある。
 わが学会も、最も激戦地に乗り込み、そこで勝ち抜くことだ。その時代の中心的天地で、厳然たる正義の陣営を構築し、勝負を決することだ。
 この事実の法則を、東京は決して忘れてはならない。
 東京が勝てば、それは皆の勝利だ! 私の勝利だ!
 ゆえに東京は断じて勝たねばならない。勝つことが東京の使命であり、宿命であり、責任なのだ。
 さあ、我らの本陣・大東京の友よ!
 断固として戦い、勝ち抜け! 自身の偉大なる歴史を綴れ!

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