Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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読書週間に寄せて 希望と勝利が青年の旗!

2002.10.31 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

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2  恩師戸田城聖先生は、若い人へ徹底的に読書を勧め、こう教えられた。
 「人生、青春時代に、良き読書をしない人は、大人になっても情緒がなく、人との対話も下劣なものにならざるをえない。親になってからも、子どもに対して威張りくさるだけで、何の教養も与えられず、すべてが悪循環になってしまう場合がある」
 ことに、私に対しては、それはそれは厳しかった。
 「今、何を読んでいるか」
 「読んでいるなら、その感想を言いなさい」
 当時は苦しい思いをしたが、第一級の教育者から薫陶を受け、読書を実践したがゆえに、今はそのおかげで、第一級の人生を名実ともに歩むことができたと、感謝に堪えない。
3  唐の大文人・韓愈は歌った。
 灯火、ようやくく親しむべし」
 簡編かんべん 巻舒けんじょすべし」
 清涼な秋を迎え、次第に灯火に親しめる時候になった。書物を繙いて読むのに、よい季節が訪れた、と。
 「読書の秋」である。この一言は、東洋の伝統的な良風であり、人間の世界を豊かにしてくれる。その美しい響きは、我々の脳裏から離れない。
 読書によって、「前頭前野」と呼ばれる脳の前部は大いに活性化する。読書をせず、テレビゲームなどばかりに没頭していると、感情を制御する脳の働きが悪くなり、集中力がなくなり、衝動的に切れやすくなる──今、心ある脳研究者の方々が、こう指摘され、憂慮されている。
 読書をしなければ、創造力もなくなり、動物性になってしまう恐れがある。良き本を読むことは、良き人生を創り、良き人生を生きていくことである。これは、世界共通の法則であろう。
 ロシアの文豪チェーホフは綴った。
 「書物の新しいページを一ページ、一ページ読むごとに、わたしはより豊かに、よりつよく、より高くなっていく!」(佐藤清郎訳編『チェーホフの言葉〈新装版〉』彌生書房)
 また、インドの詩人タゴルは、「自分の心と他人の心を弱くする習慣をつけてはいけない。自分の偉大な力を自信をもって認めなさい」(「書簡集」溝上富夫訳、『タゴール著作集』11所収、第三文明社)
 その最たる第一歩は、魂を揺り動かす良書との出会いではないだろうか。
4  ドイツの文豪ゲーテは、語った。
 「人はあまりにもつまらぬものを読みすぎているよ」「時間を浪費するだけで、何も得るところがない。そもそも人は、いつも驚嘆するものだけを読むべきだ。私が青年時代にそうしたように」(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)
 わが師も、「古典を読め、世界の文学を読め」と、口が酸っぱくなるほど言われた。いわんや、ただ面白おかしく、何のためにもならない、人の中傷をして喜ぶ週刊誌等には、師は非常に厳しかった。
 「人間は、文化のために生きるのだ!
 成長のために読むのだ!
 善のために学ぶのだ!
 それを、売らんがための興味本位の作り話で心を毒するならば、人生の方向を堕落させ、陰湿にさせてしまう」と痛烈に戒められた。
 あのアインシュタイン博士も、正しい人間教育の一環として、歴史に残る名作を読破することを勧めている。目先の軽薄な雑書しか手にしなければ、精神の近視眼を矯正できず、その時代の偏見に完全に支配されてしまうことを、博士は強く危慎されたからだ。
5  十八世紀、琉球王国の黄金時代を築いた信念の指導者である蔡温は鋭く言った。
 「邪人は正人を指して邪と為す」(崎浜一秀明編著『蔡温全集』本邦書籍)
 邪悪な人間は、正義の人を指して、邪悪だと非難するというのである。だからこそ、悪人から悪口罵詈4されることは、正義の誉れなのだ。
 また、イタリア・ルネサンスの桂冠詩人ぺトラルカは喝破した。
 「悪徳という悪徳が仮面をかぶり、おそろしい怪物が美しい毛皮のしたに隠れています」(近藤恒一編訳『ルネサンス書簡集』岩波文庫)
 さらに、イギリスの劇作家シェークスピアは警告した。
 「この世にそのままの姿であらわれる悪徳はない、
 必ずそのうわべに美徳のしるしをつけている」(『ヴェニスの商人』小田島雄志訳、『シェイクスピア全集』4所収、白水社)
 ゆえに、絶対に惑わされてはならない。
 ファシズムと戦ったフランスの文豪ロマン・ロランは、「ひたすらに正直である人間のことを──あえて調べてみようともせずに──新聞で悪く書きたてる、下種きわまる人間たちの言葉を、なんと愚かしくも人が信じこむことか」(「戦時の日記」1、蛯原徳夫訳、『ロマン・ロラン全集』26所収、みすず書房)嘆いた。
 何が真実で、何が虚偽か。何が正義で、何が邪悪であるか。透徹した眼で峻厳に見極めていくことだ。
 また「低劣な著作家の大多数は」と、ドイツの哲学者ショーペンハウアーは洞察した。彼らは「民衆の愚かさだけをたよりに生きているにすぎない」(『読書について』斎藤忍随訳、岩波文庫)と。
 だから、民衆が賢くなり、毅然と立ち上がれば、卑しい売文など、何ら恐るるものではない。彼は憤怒した。
 「無用な悪書がいよいよ氾濫して悪徳をまき散らしている」(同前)ような社会悪の増殖は断じて許してはならない! その悪を打ち破っていくことこそ、善を守る真実の言論の使命である──これが、ショーペンハウアーの火を吐く叫びであった。
 青春期、働きながら猛然と読書に励んで力をつけた、フランスの思想家ルソーは、悠然と言い放っている。
 「相手は人をこけにして攻撃をしかけてくるのに、こちらは道理で身を守るしかないのだから。だが、こちらは敵を打ち負かしさえすればよい」(「ナルシスまえがき」佐々木康之訳、『ルソー全集』11所収、白水社)
 私は、チリの哲人政治家エイルウィン元大統領とも対談集『太平洋の旭日』(本全集第108巻収)えお発刊した。このほど、スペイン語版も完成し、チリの首都サンティアゴで、元大統領各界の彩震が出席されるなか、盛大に出版発表会が行われた。
 十六年半にもおんだ軍事即位都政権と戦い、平和裏に民政を復活させた、世界史に輝く勇敢な指導者であられる。その確信の言を、忘れることができない。
 「嘘は暴力に至る控室です。『真実が君臨する』ことが民主社会の基本なのです」
6  日蓮大聖人は、権力と結託した邪僧の行智の本性を弾呵されて、こう仰せである。
 「自らの悪に飽き足らず、法華経の行者の善行を隠し、謀略をめぐらして、種々の嘘を言い立てた。これは、まさに釈尊在世の提婆達多ではないか」(御書八五三ページ、通解)
 ここに、仏法の法難の方程式がある。
 創価学会は、大聖人正統であるがゆえに、この御聖訓通りの弾圧を受けてきた。
 「佐渡御書」には、こう記されている。
 「鉄は火に入れて鍛え打つことで、剣になる。賢人、聖人と言われる人は、世間から悪口を言われ、迫害を受けて試されて、初めて、その立派さがわかるものだ」(御書九五八ページ、趣意)
 また、「強敵を倒して、初めてカの強い人であることがわかる」(御書九五七ページ、通解)とも説かれている。
 青年部は、よくよく心肝に染めていただきたい。青年ならば、自ら、その証を打ち立てることだ。
 なお蓮祖は、この御書の末尾で、中国の治世の名著『貞観政要』などの書籍を、佐渡にまで送るよう、弟子に申しつけておられた。命に及ぶ流罪の地にあっても、壮絶な精神闘争をたゆみなく繰り広げておられた一端が拝されてならない。
 ともあれ、大聖人は厳命なされた。
 「あなた方は師子王のような強い心をもって、どんなに人が脅しても恐れてはならない。師子王はどんな獣も恐れない。師子の子もまた同じである。彼ら正法に敵対する者は、キツネの類が吠えているようなものだ。日蓮の一門は師子が吼えるのと同じである」(御書一一九〇ページ、通解)と。
 戸田先生は、青年部に対して常日頃から厳然と指導された。
 「キツネのような嘘つきの青年には絶対になるな。
 でっち上げで、人を陥れる金儲けの低俗な雑誌など、絶対に読むな。人の噂をつくる人間を決して信用するな。
 騙されるな。騙すな。
 賢明な人格者になれ!」
 さらに、先生の遺言の一つに、「人生は何があっても、強気でいけ!」とあった。
 希望と勝利が青年の旗だ。忍耐と勇気が青年の信条だ。努力と建設が青年の行動だ。栄光と連帯が青年の音楽だ。
 そして、正義の闘争こそが青年の力なのである。

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